大給城跡

おぎゅうじょうあと (Ogyu Castle Ruins)

【C-AC008】探訪日:1989/5/16・2016/5/1

【C-AC008】大給城跡 愛知県豊田市大内町城下3

【MAP】

〔駐車場所〕

【C-AC008】大給城跡

   築城年代は定かではないが、地元土豪の長坂新左衛門によって築かれたとされる。やがて岩津へ進出してきた松平信光が攻略し岩津城と共に親忠に譲り、親忠は子の乗元へ譲った。乗元は大給城を居城とする大給松平氏の祖となり、その子松平乗正とともに1507(永正3)年から1510(永正7)年にかけて、城郭としての体裁を整備したとされる。
 大給松平氏は周囲の松平一族とたびたび抗争を繰り返しており、1575(天正3)年には滝脇城の松平乗高の襲撃を受けた際に落城したという。そして、1590(天正18)年、6代松平家乗のとき、徳川家康の関東移封に伴い上野国那波へ一万石で転封となり、廃城となった。
 城郭は標高207mの山頂部に露出した巨石をうまく利用して築かれており、山容の鞍部を堀切で区切り、東西220m,南北280mの規模を持つ。主郭部は石塁で区画した通路が中央にあり、その北端に枡形虎口を設けている。枡形虎口に面して石塁や高石垣,竪堀を備えている。主郭は通路の西側で石塁に沿った南側に虎口を開いている。大手は東側で大堀切に石積を伴う土橋が架かり、櫓台を備える虎口を2ヶ所通って曲輪に入る構造である。
 特徴的なのは、北尾根に設けられた「水の手曲輪」と呼ばれる個所で、谷筋を堤防などで複数に区切って2つの曲輪として構成し、それぞれの曲輪内を井戸水と雨水によって水を溜めることで水堀と水利の両方の役割をもたせている。堤防のうち一つは幅30m,高さ5mの大規模なものである。
 なお、大給城から続く尾根の東端に松平乗元の墓が設けられている。

【史跡規模】

【指 定】国指定史跡(2000年2月4日指定):「松平氏遺跡」のひとつ
【国 宝】

【国重文】

関連時代 戦国時代 安土桃山時代
関連年号 1507~1510年・1575年

1590年

関連人物 系図 関連人物 系図 関連人物 系図
長坂新左衛門 **** 松平信光 MT01 松平親忠 MT01
松平乗元 MT21 松平乗正 MT21 松平乗高 MT28
松平家乗 MT21

 

【C-AC008】大給城跡
 史跡探訪では、思わぬ人と出会うことがある。2回目の探訪では、テレビ番組撮影のために城郭考古学者の千田嘉博教授一行が訪れていた。千田教授のほか、番組の女性アナとカメラなどの制作スタッフら7名である。教授は私に「こんにちは」と挨拶してくださり、テレビで見る通りの人当たりのよい方であった。また、スタッフ達とは「ここはすごいお城ですね」とかなり興奮されていた様子がこちらにも伝わってきた。下山の際にも一行と偶然いっしょになり、20mほど先を歩いていた私の前に1mほどの蛇が現れたため、「蛇がいますので気を付けてくださいね」と振り返り一行に教えるなど、いろいろと印象に残る登城であった。なお、番組放映では大給城のカットはほんのわずかであったけど。

 

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▲堀切

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▲虎口

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▲虎口と櫓台

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▲土塁

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▲土塁

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▲主郭

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▲石塁

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▲城址碑

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▲主郭からの眺望

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▲水の手曲輪へ

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▲水の手曲輪

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▲水の手曲輪

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▲水の手曲輪

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▲水の手曲輪

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▲水の手曲輪

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▲後から失礼!左から渡邊佐和子アナ,千田嘉博教授