十九条城跡
じゅうくじょうじょうあと(Jukujo Castle Ruins)
【C-GF069】探訪日:2024/2.8
岐阜県瑞穂市十九条
【MAP】
〔駐車場所〕
1526(大永6)年、尾張の織田信秀を警戒した土岐頼純が、川手城を防衛する出城の一つとして斎藤利良に命じて築かせた。しかし、土岐氏が衰退し、美濃国を斎藤道三が支配するようになると存在意味がなくなり、一旦廃城となる。
1561(永禄4)年、美濃進出を狙う織田信長は墨俣城以外の攻略の拠点として、かつての十九条城跡地を占領し、再び十九条城を築き、織田広良(別名:信益)が城主とした。
一方、1561(永禄4)年5月14日に森部の戦いで信長に敗れた斎藤龍興は、5月23日には洪水により交通が遮断された隙に、十九条城を目指して稲葉山城から出陣する。これに呼応して信長も墨俣城から兵を出し、24日、十四条の地で対峙し激戦となった。この戦いで先陣を務めた十九条城主の広良は野々村正成に討たれて戦死した。信長軍は一旦兵を退き、軽海で兵の再編成を行い、攻め寄せる斎藤軍に対峙した。軽海の戦いは足軽同士の白兵戦、夜戦となった。斉藤方の重臣であった真木村牛介、そして稲葉又右衛門常通(稲葉一鉄の叔父)が織田軍の池田恒興と佐々成政の2人掛かりで討ち取られると、斎藤軍は夜陰を突いて退却した。この戦いで十九条城は焼失し、そのまま廃城となった。
現在、十九条城の本丸跡は津島神社になっている。