火ヶ峰砦跡
ひがみねとりであと(Higamine Fort Ruins)
【C-SZ138】探訪日:2024/9.15・10.12
静岡県掛川市中
【MAP】
〔駐車場所〕
1580(天正8)年、横須賀城主・大須賀康高を中心とする横須賀衆によって中村砦,獅子ヶ鼻砦,安威砦とともに築かれた高天神六砦の一つである。もとは武田時代に高天神城支城として築かれたとも考えられている。「火ヶ峰東砦」ともいう。
火ヶ峰西砦から南東500mの尾根続きの丘陵地に位置することで、一体であった可能性もある。高天神六砦の中では高天神城に最も近く、かつ、最も規模が大きかったとされ、城域は1kmを超える長大なものであったことからも一体であったことが裏付けられる。これにより高天神城と甲斐国との経路は遮断され、高天神城に立てこもっていた横田尹松は、この火ヶ峰砦の完成を目にして敗戦必至を悟り、内密に武田勝頼に高天神城を見捨てるよう書状を出している。
高天神六砦のほかにも多くの砦,付城が築かれ、徳川軍による兵糧攻めの結果、翌1581(天正9)年3月、高天神城は陥落する。
火ヶ峰砦跡の遺構の多くは失われているが、南北100mの山頂部には比較的良好な遺構が残されている。北西にある幅10mの堀切の南が主郭で、南側に土塁を持つ東西35mほどの曲輪である。さらに東の堀切を挟んで南東側の2郭は約100mほどの緩やかで広い曲輪で駐屯地と思われる。坂虎口を下り右側(2郭の北側)には幾段かの腰曲輪がみられる。