岩内城跡
ようちじょうあと (Yochi Castle Ruins)
【C-ME065】探訪日:2020/10/14
三重県松阪市岩内町
【MAP】
〔駐車場所〕
年代は定かではないが、戦国時代には北畠氏の一族で北畠13人衆の一人であった岩内主膳正光安が城主であった(村民は岩内御所と呼んだ)。岩内氏は一時廃絶したが、1512(永正9)年に再興された。
1569(永禄12)年の織田信長伊勢侵攻に対しては、北畠氏は岩内城に光安ら兵500を置いて迎撃態勢をとった。光安は信長の降伏勧告に応じなかったが、織田勢は軍勢を遣ることもなく、まっすぐ大河内城へ向かったという。光安の子息・玉千代は2歳の時、北畠具親の養子となり北畠に改称した。光安自身は1576(天正4)年に田丸城にて織田信雄によって殺され家は断絶した。成人した玉千代は北畠荘門光吉と名乗り、北畠の遺臣に守られて伊勢山田に住まいしたという。
城は瑞厳寺の北側に聳える標高170m,比高70mほどの山頂に築かれている。瑞巌寺跡と墓地の中間にある西登城口から上り、尾根にたどり着くと金毘羅宮がある。山頂の曲輪は主郭と帯曲輪であり、主郭とされる部分は幅3mほどでほとんど細尾根に近い。その下方には幅広の竪堀が三条あり、その下に北尾根を遮断する堀切が二条ある。
【史跡規模】 |
【指 定】 【国 宝】 【国重文】 |
関連時代 | 戦国時代 |
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関連年号 | 1569年・1576年 |
関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 |
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岩内光安 | G818 | 織田信長 | OD04 | 北畠具親 | G830 |
北畠光吉 | G*** |
岩内城縄張り図(松阪山城会『松阪の城50選』に加筆)