田丸城跡
たまるじょうあと (Tamaru Castle Ruins)
【C-ME011】探訪日:1992/3/22・2020/10/15
三重県度会郡玉城町114-1
【MAP】
〔駐車場所〕
1336(建武3/延元元)年、南朝方拠点として北畠親房,北畠顕信によって築かれたとされる。南北朝時代は玉丸城と呼ばれ、北畠氏の愛州忠行が城主で養子・政勝のときに玉丸と名乗った。
1342(康永元)年、足利尊氏によって落城する。その後、室町時代には伊勢国司となった北畠氏により再建され、第5代北畠政郷の四男・顕晴が入り田丸氏を名乗った。
1569(永禄12)年の織田信長の伊勢侵攻の際には、田丸直昌は北畠具教の養嗣子となった織田信雄に田丸城を明け渡し、信雄に仕えた。
1575(天正3年)、田丸城は改築され、信雄は大河内城を廃して田丸城に本拠を移す。しかし、1580(天正8)年の火災により建造した三層の天守も焼失し、信雄は松ヶ島城を築いて移ることとした。なお、1576(天正4)年11月には、信長の意向を受けた信雄の命により、田丸直昌は長野具藤,北畠親成ら同族の北畠一門衆を城に招き寄せ殺害している(三瀬の変)。
1584(天正12)年、蒲生氏郷が松ヶ島城に入封すると、氏郷の妹婿となっていた田丸直昌が再び田丸城主となった。氏郷が会津若松城に移封となると直昌も三春城主として移っている。
その後は稲葉道通が城主となったが、1615(元和元)年に摂津国中島に転封となり、田丸城は津城主の藤堂高虎の預るところとなった。そして、1619(元和5)年、紀伊国和歌山藩が興されると徳川頼宣の所領となり、付家老の久野宗成(元久野城主)が田丸城主に任じられた。久野氏はその後8代続き、明治維新に至る。
明治維新に伴い田丸城の建造物はほとんど取り壊されたが、天守台や石垣,外堀,内堀,堀切,空堀などの遺構は今も整備されて残されており、他所へ移築されていた富士見門,三の丸の奥書院なども再度移築されている。
【史跡規模】 |
【指 定】三重県指定史跡(1953年5月7日指定) |
関連時代 | 南北朝時代 | 戦国時代 | 江戸時代:前期 |
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関連年号 | 1336年・1342年 | 1569年・1575年・1580年・1584年 | 1615年・1619年 |
関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 |
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北畠親房 | G818 | 北畠顕信 | G818 | 愛州忠行 | G*** |
足利尊氏 | G332 | 田丸顕晴 | G820 | 田丸直昌 | G8** |
織田信雄 | OD05 | 長野具藤 | F039 | 北畠親成 | G8** |
稲葉道通 | OC** | 藤堂高虎 | F794 | 徳川頼宣 | TG21 |
久野宗成 | F022 |
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▲大賀ハスの堀
▲大賀ハスの堀
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▲城址碑
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▲移設復元された富士見門
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▲西の丸跡へ
▲西の丸跡
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▲土塁
▲西の丸跡の堀
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▲本丸虎口跡
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▲本丸跡
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▲天守跡
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▲櫓跡
▲本丸跡から見た眺望(南西方向)
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▲二の丸跡
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▲富士見台跡
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▲二の丸虎口跡
▲二の丸虎口跡
▲二の丸虎口跡
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▲蓮池
▲蓮池