加賀野井城跡

かがのいじょうあと (Kaganoi Castle Ruins)

【C-GF017】探訪日:2015/9/20

【C-GF017】加賀野井城跡  岐阜県羽島市下中町加賀野井内屋敷

【MAP】

〔駐車場所〕

【C-GF017】加賀野井城跡

   築城年代は定かではないが、 天正年間(1573~91年)頃には加賀井重望が織田信雄に仕えて415貫文を領していた。
 1584(天正12)年4月の長久手の戦いで大敗を期した豊臣秀吉は、5月に諸戦の雪辱のため一転して尾張国西部の要衝である加賀野井城を攻撃した。城中には信雄の隊兵2千騎も加わり必死に防いだが、豊臣方10万の大軍に抗しきれず、城の明け渡しと助命を条件に講和を申し入れたが秀吉は受け入れなかった。5月7日、夜蔭に乗じ大手門より討って出、城兵の大半は討死、加賀井重宗,重望親子は辛くも脱出して関東に逃れた。秀吉は、加賀野井城はじめ奥城,竹ヶ鼻城を攻略することで家康自身の出陣を誘い、直接対決を目論んでいたとされる。
 その後、重望は秀吉からの登用の誘いを受けて仕え、1599(慶長4)年には加賀野井に8,000石の知行を有していた。しかし、1600(慶長5)年の関ヶ原の戦いの直前、三河国池鯉鮒において水野忠重,堀尾吉晴らとの宴席にて些細なことから口論となって忠重を殺害、吉晴を負傷させたことで、自らも吉晴によって殺害された。重望の子息は、関ヶ原の戦いで西軍に属したことで忠重の子・水野勝成に処刑され、加賀井氏の所領は没収された。
 地元の伝承では、城の井戸が木曽川の中ほどにあるといい、1586(天正14)年の洪水や1608(慶長13)年の御囲堤築造に伴う治水工事で城郭,城地の大半を失ったという。

【史跡規模】

【指 定】
【国 宝】
【国重文】

関連時代 戦国時代 安土桃山時代
関連年号 1584年 1599年・1600年
関連人物 系図 関連人物 系図 関連人物 系図
加賀井重望 **** 加賀井重宗 **** 織田信雄 OD05
豊臣秀吉 ZZ01 水野忠重 G606 堀尾吉晴 ****
水野勝成 G607

 

【C-GF017】加賀野井城跡
 木曽川西河畔に広がる田の片隅にポツンと城址碑と説明板が建っている。尾張西部の要衝の地とされた面影は全く感じられず、静かな穏やかな光景から、ここで降伏を許されない激しい戦いが繰り広げられたことは想像できない。
 

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