美人ヶ谷城跡

びじがやじょうあと(Bijigaya Castle Ruins)

【C-SZ123】探訪日:2024/4.15

【C-SZ123】美人ヶ谷城跡 静岡県掛川市上西郷字美人ヶ谷

【MAP】

〔駐車場所〕城跡南の山本神社の駐車場(美人ヶ谷公民館前)を利用する。

   別称、石谷城ともいう。築城年は定かではないが、室町時代の応仁・文明年間(1467~87年)には藤原南家の工藤太夫為憲の流れを汲む二階堂氏の子孫の遠江西郷氏が居城したと伝わる。1494(明応3)年には今川方の伊勢長氏(のちの北条早雲)による遠江三郡侵攻に際し、高藤城の原氏に与したが倉真城滝ノ谷城などとともに制圧された。その後、戦国時代(1568年頃)に後裔の石谷政清,子の石谷政信,清定が今川方から徳川方へ鞍替えし継承したとされ、徳川家康の関東移封に従い、武蔵国多摩郡に移ったことで廃城となった。
 美人ヶ谷城は標高107m,比高50mの湾曲した尾根上に延びる東西約100m,南北約250mの範囲に築かれた連郭式の山城である。城域の最高部に主郭をもち、主郭の西側の斜面を下りると不整形の広い2郭となるが、後世に加工されており築城時の状況ははっきりしない。主郭から南へは順次、3郭,4郭,5郭,6郭、そして大手曲輪とされる7郭へと続く。3と4郭,5と6郭、そして6と7郭は堀切で区切られ、特に5郭と6郭の間の堀切は深くはっきり残されている。また、それぞれの郭の両側には小規模なものも含め腰曲輪と帯曲輪が複数設けられている。5郭の北西側には横矢掛けの張り出しがみられる。
 なお、「美人ヶ谷」とは、山の禿げた状態を示す「ビンゲ谷」が訛ったものだといわれている。

【史跡規模】

【指 定】

【国 宝】 

【国重文】

関連時代 室町時代 戦国時代 安土桃山時代
関連年号 1467~1487年 1494年・1568年 1590年
関連人物 系図 関連人物 系図 関連人物 系図
西郷氏 **** 伊勢長氏 H150 石谷政清 F0**
石谷政信 F0** 石谷清定 F0**

 

【C-SZ123】美人ヶ谷城跡
 城跡の南にある山本神社の社殿左側から登ったが(小階段がある)、途中、「美人ヶ谷城址150米」のプレートが立つところに舗装された道路が現れ、ルートがほかにもあるのがわかった(確認はしていない)。7郭から入ることになるが、7郭は雑草と藪でその地形はよくわからない。その後の6郭以降ははっきり認識できる。特に6郭と5郭の間の堀切は深く、張られたロープを伝って上ることになる。初心者にも楽しめる城跡かもしれない。

 

【C-SZ123】美人ヶ谷城跡

 

美人ヶ谷城縄張図(『静岡県の城跡 中世城郭縄張図集成(西部・遠江国版)』に加筆)

【C-SZ123】美人ヶ谷城跡 ※本サイトの写真は転用可です(画像をピックすると拡大、コメント表示されます)

山本神社の鳥居 山本神社本殿 本殿左に城への登り口がある 途中にある「美人ヶ谷城址150米」のプレート プレートの場所からの遠景 7郭 南から1本目の堀切 南から1本目の堀切 南から1本目の堀切 6郭 南から2本目の堀切 南から2本目の堀切 南から2本目の堀切 南から2本目の堀切 南から2本目の堀切 南から2本目の堀切 南から2本目の堀切(5郭側から見る) 5郭 5郭 4郭 3郭 3郭 3郭 主郭 主郭 主郭 主郭 主郭 主郭南の帯曲輪 主郭の切岸 2郭 2郭から主郭側を見る