鶴ヶ城跡(神箆城跡)
つるがじょうあと(こうのじょうあと) (Tsuruga[Kouno] Castle Ruins)
【C-GF010】探訪日:1990/02/18・2018/8/19
岐阜県瑞浪市土岐町鶴城
【MAP】
〔駐車場所〕城址碑(登城口)の道路は狭いため、近くの秋葉組集会所に駐車させていただくのがよい。
文治,建久(1185~99)の頃、美濃守護となった土岐光衡によって築かれたと言われているが、近くに土岐頼兼の墓や一日市場館があることから土岐頼兼、父の土岐頼貞の築城ではないかとする説もある。1324(正中1)の正中の変では、土岐頼兼が本拠としたことで有名である。土岐氏が本拠を美濃中部の川手城等へ移してからも東美濃の拠点の城であった。
1574(天正2)年、武田勢が恵那郡南部へ進軍して明知城を包囲した際、信長の命で小里城山城と共に鶴ヶ城も改修して川尻秀隆を城番とした。鶴ヶ城が織田氏東濃防衛の主城であった。また、1582(天正10)も信長が甲斐へ進軍の際、高野へ宿泊したとされ、当地は重要な地であったと考えられる。
1600(慶長5)年の関ヶ原の戦いの際には西軍に属しており、合戦で小里氏,遠山氏らの攻撃を受けて落城し、直後に廃城になったとされるが諸説あり定かではない。
鶴ヶ城の名前は、鶴が翼を広げたような縄張りから由来したとされるが、現在では、両翼の先端部分の曲輪が中央道によって削り取られ消滅している。中央道沿いの測道脇に鶴ヶ城の案内板と石碑が建てられていて、ここが大手門跡。両翼の曲輪群に挟まれた谷筋を七曲がりの登城道を登ると井戸跡のある二の丸へと至る。二の丸背後に一段高く本の丸がある。
【史跡規模】 |
【指 定】岐阜県指定史跡(1960年年3月30日指定) |
関連時代 | 鎌倉時代 | 戦国時代 | 安土桃山時代 |
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関連年号 | 1185~99年 | 1574年・1582年 | 1600年 |
関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 |
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土岐光衡 | G132 | 土岐頼兼 | G133 | 土岐頼貞 | G133 |
川尻秀隆 | 織田信長 | OD04 | 織田信忠 | OD04 |
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▲城址碑
▲登城口
▲大手道
▲二ノ木戸跡
▲土塁
▲葵の井戸
▲葵の井戸
▲葵の井戸
▲西出丸跡
▲西出丸跡からの遠景
▲東出丸跡
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▲東出丸跡からの遠景
▲本丸跡
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▲本丸跡からの眺望