小里城跡
おりじょうあと (Ori Castle Ruins)
【C-GF004】探訪日:1990/2/18・2018/8/19
岐阜県瑞浪市稲津町小里2718
【MAP】
〔駐車場所〕登城入り口の道を挟んだ向かい側に駐車場がある。
1534(天文3)年、小里光忠によって小里川南岸に築かれた。それ以前は小里氏の菩提寺である興徳寺の西の小里新城が居城だったとされる。
城跡は、山頂部の本丸曲輪跡と北西山麓の御殿場跡と呼ばれる居館跡(小里陣屋跡)、及びその東側の尾根上の東砦跡からなり、本丸曲輪跡には、不等辺六角形で半地下構造の天守台があって三段に石垣が組まれ、築城用の割石が散在している。他に升形と呼称される石組み遺構,石垣を使用した曲輪跡が残る。御殿場跡は、少なくとも16世紀後葉には造成され、17世紀前葉に廃絶したことが判明している。
小里光忠は、織田信長に従ったが1570(元亀元)年の武田氏重臣の秋山虎繁が東美濃に侵入した際の上村合戦に敗れ死去した。光忠の子・光明は、1574(天正2)年に小里城に在城しており、織田信長は岩村城を攻める拠点として鶴ヶ城(美濃国)に河尻秀隆、小里城に池田恒興を御番手として入れ、改修を行なった。なお、翌年岩村城が落城すると、この工事は中止された。
1583(天正11)年、小里光明は織田信孝に仕えたが、賤ヶ岳の戦いにより豊臣秀吉に敗れて信孝が自害した後は、森長可に攻められて小里城を離れ、和田姓を名乗って徳川家康に仕えた。その後、関ヶ原の戦いの功によって光明の子・光親は1600(慶長5)年に土岐,恵那郡の旧領を再び与えられ、小里城に帰還し陣屋を構えた。しかし、光親の子・光重は嗣子がないまま1623(元和9)年に亡くなったため、小里氏は断絶している。
【史跡規模】 |
【指 定】岐阜県指定史跡(2013年年5月7日指定) |
関連時代 | 戦国時代 | 安土桃山時代 | 江戸時代:前期 |
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関連年号 | 1534年・1570年・1574年・1583年 | 1600年 | 1623年 |
関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 |
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小里光忠 | G135 | 秋山虎繁 | G433 | 小里光明 | G135 |
池田恒興 | KI** | 織田信孝 | OD04 | 森 長可 | G396 |
徳川家康 | TG01 | 小里光親 | G135 | 小里光重 | G135 |
武田氏,織田氏,豊臣氏そして徳川氏と歴史の波に揺り動かされた城という感がある。天守台の石垣はスケールこそ大きくはないが、山城としては状態よく残されており、魅力的な城跡の一つであった。
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▲登城口
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▲東砦跡
▲堀切
▲石垣跡
▲大手門跡
▲御殿場跡
▲「御殿場跡」説明板
▲「御殿場跡」説明板
▲大手道
▲大手曲輪跡
▲二の曲輪跡
▲本丸跡
▲本丸跡
▲天守台
▲天守台
▲天守台
▲城山神社
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▲帯曲輪跡
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