堂洞城跡
どうほらじょうあと (Dohora Castle Ruins)
【C-GF043】探訪日:2019/11/16
岐阜県加茂郡富加町夕田
【MAP】
〔駐車場所〕
築城者,築城年代は定かではないが、織田信長の中濃攻略阻止のために築かれた城で、天文,永禄の頃には斎藤龍興方の岸勘解由信周が城主であった。1563(永禄6)年、加治田城の佐藤忠能、関城の長井道利、そして堂洞城の岸信周の中濃三城で反信長の盟約を結んだが、佐藤忠能が信長に内通していた。佐藤忠能は内通を悟られないように、岸信周に娘の八重緑を人質に出していた。
1565(永禄8)年8月、織田方の丹羽長秀,河尻秀隆,森可成、さらに信長に内通した佐藤忠能の軍勢の攻撃を受ける。当初、信長は、信周の武勇を惜しんで金森長近を使者として派遣し投降を勧めたが、信周は主君である斎藤氏との義を重じ、これを固く拒んだ。嫡男の信房は長近の目の前で自分の子の首を斬り落として覚悟を示したともいう。裏切った佐藤忠能の娘・八重緑は堂洞城に面した長尾丸山で磔にされた(亡骸は忠能の家臣西村治郎兵衛が深夜に奪い取り加治田の龍福寺へ葬ったと伝わる)。8月26日、信長は高畑山に本陣を構え、佐藤忠能と共に夕田と蜂屋の両面より堂洞城の攻撃を開始した。8時間に亘る戦いの末、長男信房は討死、信周は城に火を放って妻と共に自害して果てた(堂洞合戦)。なお、援軍の長井道利は信長本軍に阻まれて撃退され、岐阜城からの斎藤龍興援軍も一日遅く間に合わなかった。
また、1582(天正10)年の本能寺の変後、混乱に乗じた斎藤利堯と森長可による加治田・兼山合戦の際、堂洞城跡は森長可の加治田攻城戦の本陣として使用された。
現在、城址はゴルフ場の開発などで遺構の大半は消失しているが、本丸,長尾丸,二の丸跡,土塁,堀が残り、本丸には「南無阿弥陀佛」と刻まれた石碑が建つ。また、本丸にある岩場は岸信周が酒宴を催した八畳岩と言われている。堂洞城南道からの登山道入口(蜂屋方面)には、「堂洞城入口」の石碑がある。本丸と八畳岩には、木で作られている「堂洞城由来」の説明板があるが、判読不可能のため、Wikipediaから転載した。
※説明板の内容
「堂洞城は蜂屋の領主岸勘解由のたてこもった砦であります。天下平定を目指して尾張から美濃に攻め入った織田信長は、永禄8年(1565年)8月にこの砦を攻撃して落城させました。信長は8月26日高畑山に本陣を構え、先に信長に通じていた加治田城主佐藤紀伊守と共に夕田・蜂屋の両面より堂洞城の攻撃を開始しました。勘解由の城兵と共に信長軍を迎え撃ち、辰の刻午前8時から申の刻午後4時までの8時間にわたって抗戦しましたが、長男信房は討死し、敵兵が内に乱入するに及び、城に火を放って妻と共に自害して果てました。ここにあります岩は、八畳岩と言い勘解由や城兵たちがこの岩の上で月見の宴を催したと伝えられています。」
【史跡規模】 |
【指 定】岐阜県指定史跡 【国 宝】 【国重文】 |
関連時代 | 戦国時代 |
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関連年号 | 1563年・1565年・1582年 |
関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 |
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織田信長 | OD04 | 斎藤龍興 | F846 | 岸 信周 | **** |
佐藤忠能 | F*** | 佐藤八重緑 | F*** | 長井道利 | F846 |
丹羽長秀 | YM04 | 河尻秀隆 | **** | 森 可成 | G396 |
西村治郎兵衛 | **** | 金森長近 | G136 | 岸 信房 | **** |
斎藤利堯 | F846 | 森 長可 | G396 |
主郭跡に建つ「南無阿弥陀佛」の碑は、自分の子を殺害する覚悟,女性人質の磔,妻との火中での自害など戦国時代の悲しい歴史を物語っている。
▲堂洞城入口の碑(「中蜂屋」交差点)
▲登城口:左へ入る(柵内はゴルフ場)
▲イノシシ除けのフェンスを開けて入る
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▲主郭跡へ
▲主郭跡
▲主郭跡
▲主郭跡
▲主郭跡の「南無阿弥陀佛」の碑
▲説明板(内容は上記参照)
▲主郭跡
▲主郭跡
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