黒田城跡

くろだじょうあと (Kuroda Castle Ruins)

【C-AC099】探訪日:2015/9/12

【C-AC099】黒田城跡 愛知県一宮市木曽川町黒田字古城

【MAP】

〔駐車場所〕

【C-AC099】黒田城跡

   築城年代は定かではないが、明応年間(1492~1501年)に五島光正が屋敷を構えたのが始まりとされる。天文年間(1532~55年)には尾張国上四郡守護代の岩倉城主織田伊勢守信安の家老・山内但馬守盛豊が城代として黒田城を居城とした。この盛豊の二男がのちの掛川城主、土佐藩主となる山内一豊である。
 1557(弘治3)年、織田信長の手勢による夜討で落城し、山内盛豊と長男十郎は討死(異説あり:法蓮寺に山内盛豊・十郎父子の墓所がある)、一豊は岩倉城へと逃れた。その後、犬山城主織田信清の弟・織田広良が城主となったが、1562(永禄5)年、美濃国十九条城の守将のとき斎藤道三との戦いで討死した。黒田城には犬山城織田氏の家老和田新助定利が入ったが、定利も1574(天正2)年の伊勢国長島攻めに従軍して討死し、定利の弟の和田八郎定教が黒田城主となった。
 本能寺の変後、織田信雄の家臣の沢井左衛門雄重が城主となり、1584(天正12)年の小牧長久手の戦いでは黒田城を死守した。
 1590(天正18)年、織田信雄が改易されたため、黒田城には3万5千石で一柳直盛が入る。直盛は関ヶ原の戦いで東軍に属して戦功を挙げ、伊勢国神戸に5万石で転封、黒田城には尾張を所領とした松平忠吉の家臣・富永丹波守忠兼が在城したが、1609(慶長14)年頃には廃城となった。
 城は黒田小学校一帯に築かれていたという。現在は特に遺構は残っておらず、小学校の北東隅部分の小公園に石碑が建てられている。

【史跡規模】

【指 定】一宮市指定史跡(1973年10月1日指定)
【国 宝】
【国重文】

関連時代 戦国時代 安土桃山時代 江戸時代:前期
関連年号 1492~1501年・1532~55年・1557年・1562年・1574年 1590年 1609年
関連人物 系図 関連人物 系図 関連人物 系図
五島光正 **** 山内盛豊 F943 山内十郎 F943
山内一豊 F944 織田広良 OD** 和田定利 ****
和田定教 **** 沢井雄重 **** 一柳直盛 OC07
富永忠兼 OT15

 

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▲山内一豊立像