花倉城跡
はなくらじょうあと (Hanakura Castle Ruins)
【C-SZ074】探訪日:2022/2/27
静岡県藤枝市花倉勝谷
【MAP】
〔駐車場所〕 登城口(説明板のある所)まで車でも行けるが、道はかなり狭く駐車できるのは2,3台。
葉梨城ともいう。築城年は定かではないが、駿河守護となった今川範国は東への勢力拡大を目指し、遠江国見付から駿河国葉梨荘に本拠地を移す。翌1353(正平8/文和2)年に家督と守護職を譲られた子の今川範氏が今川城(今川居館)と詰城として花倉城を築いたとされる。今川氏は範氏の後、今川泰範,今川範政と続くが、1411(応永18)年に範政が駿府に館を構えたときに西の守りとして花倉城を築いたとの見方もある。
1536(天文5)年、今川家に家督争いが勃発する。花倉の乱である。5月、当主の今川氏輝の急死により栴岳承芳(富士善得寺の僧;後の今川義元)と兄・玄広恵探(花倉遍照寺の僧)が次期当主の名乗りをあげ、恵探派が駿府の今川館を襲撃したが失敗し、方ノ上城と花倉城を拠点とし戦うが、承芳派の朝日山城主・岡部親綱の活躍で同年6月10日には落城。恵探は敗走の後、普門寺で自刃し乱は終結した。
花倉城は志太平野を臨む標高297mの山頂に築かれている。南北に伸びる山頂稜線上に本曲輪,二の曲輪が配され、曲輪は堀切で区切られている。本曲輪の北側には櫓台とみられる高みがある。また、二の曲輪には土塁が残されている。全体的には発掘調査は行われておらず、正確な城域は確定していないという。
なお、今川範氏と嫡子・氏家の墓が遍照寺に、今川泰範の墓が長慶寺に在る(範氏の墓は慶寿寺にも建てられている)。
【史跡規模】 |
【指 定】藤枝市指定史跡(1986年3月28日指定) |
関連時代 | 南北朝時代 | 室町時代 | 戦国時代 |
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関連年号 | 1353年 | 1411年 | 1536年 |
関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 |
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今川範氏 | G360 | 今川泰範 | G360 | 今川範政 | G360 |
今川氏輝 | G360 | 栴岳承芳(今川義元) | G361 | 玄広恵探 | G360 |
岡部親綱 | F009 |
登城口まで車を走らせたが道はかなり狭く、木の枝が延びている個所では車の側面を引っ掻く(幸いキズは残っていなかったが)。登城口を入るとすぐに土橋が現れる。尾根道は少し歩きづらいが、途中に案内板もあり迷うことはない。
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▲登城口
▲土橋1
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▲土橋2
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▲帯曲輪
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▲本曲輪
▲本曲輪
▲本曲輪
▲本曲輪(南から北を見る)
▲北の土壇状遺構(櫓台跡?)
▲本曲輪(北から南を見る)
▲土壇状遺構の北側
▲本曲輪の斜面
▲本曲輪から見た二の曲輪
▲本曲輪と二の曲輪の間の堀切
▲堀切
▲堀切
▲堀切と二の曲輪の土塁
▲二の曲輪
▲二の曲輪
▲二の曲輪の土塁
▲土塁
▲二の曲輪からの眺望