江戸城跡(西の丸)
えどじょうあと(にしのまる)(Edo Castle Ruins [Nishinomaru])
【C-KT001c】探訪日:2023/9.16
東京都千代田区千代田1
【MAP】
〔駐車場所〕
西の丸は、本丸(東御苑)の西側、上下道灌堀と二重橋濠に囲まれた現在の皇居宮殿や宮内庁のある区画とされる。その北西側(現・吹上御所)は、江戸城築城後には番衆,代官衆や清洲藩の松平忠吉の屋敷地があり、その後は徳川御三家の大名屋敷が建築されていたが、明暦の大火以降は江戸城への類焼を防ぐための火除け地として日本庭園が整備されていく(吹上御庭)。
なお、徳川家康が江戸城に入城するまでは西の丸の地は武蔵野台地の東端で海岸沿いの土地で城外であり、1592(文禄1)年に城を拡張し一郭とした。初めは、御隠居城,新城などと呼ばれ、2代将軍・秀忠以後は将軍隠居後の大御所、あるいは将軍世子の居城として使用された。
西ノ丸御殿や櫓などは三度にわたって焼失し、1868(明治元)年4月に朝廷に明け渡された殿舎は、4度目に再築された仮御殿であった。なお、本丸御殿は1657(明暦3)年1月の明暦の大火はじめ再建と焼失を繰り返したが、1863(文久3)年の焼失以降は再建されずに、機能は西ノ丸御殿に移していた。二の丸御殿も1867(慶応3)年に焼失し消滅した。
西の丸(皇居)の出入口としては、半蔵門,坂下門,乾門,眼鏡橋,二重橋がある。
半蔵門は大手門とは正反対の城の西端に位置し、江戸城の搦手門ともいえる。本来は桜田門と同じような枡形門であったが櫓門の部分は明治時代に撤去された。また、現在の門は和田倉門の高麗門を移築したものである(旧来の門は東京大空襲で焼失)。名称については、門の警固を担当した服部正成・正就父子の通称「半蔵」に由来するとする説が定説であり、服部家の部下(与力30騎,伊賀同心200名)がこの門外に組屋敷を構えていたという。現在、天皇・内廷皇族及び秋篠宮家の皇居への出入りには、主にこの門が用いられている。他の皇族は乾門を使用することが多い。
坂下門は西の丸造営直後に築かれた門で西の丸大奥に近く、西の丸の通用門として利用されていた。桜田門外の変の2年後の1862(文久2)年1月15日に、尊攘派の水戸浪士6人が老中・安藤信正を襲撃し負傷させた事件が坂下門近くで起きている(坂下門外の変)。信正は、直弼の開国路線を継承し、幕威を取り戻すため和宮降嫁の公武合体を決定したが、尊王攘夷派志士らはこれに反発し信正を襲撃した。
眼鏡橋は1624(寛永元)年架橋の西の丸大手橋(木橋)がもとで、1887(明治20)年に花崗岩でできたアーチ橋に架け替えられたものである。現在は皇居正門石橋となる。なお、二重橋(皇居正門鉄橋)はその奥に掛かり、江戸時代の木橋時代に二重構造だったのがその名の由来である。
二重橋越しに見える伏見櫓は西の丸の西南隅に建てられた二重櫓で、1628(寛永5)年の江戸城修築に際して、伏見城から移築したものと伝えられている。石垣も櫓も堅牢で、関東大震災でも崩れずに往時の姿をとどめている。
【史跡規模】 |
【指 定】国特別史跡:江戸城跡(1960年5月20日指定)の一部 【国 宝】 【国重文】 |
関連時代 | 安土桃山時代 | 江戸時代:前期 | 江戸時代:後期 |
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関連年号 | 1592年 | 1628年・1657年 | 1862年・1868年 |
関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 |
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服部正成 | H151 | 服部正就 | H151 | 安藤信正 | G513 |
私事イベント終了後に急遽訪れたため、15時半から17時半までの2時間でどれだけ回れるか、汗かきながらの駆け足探訪であった。そのため、撮影できなかった個所は、種々サイトから一部写真を借用させていただいた(転載の旨を表記)。機会があれば、再チャレンジしていく。
城跡が広大なため、本サイトでの以下の4区画に区分して表示している
記号 |
城跡 |
現状 |
C-TK001a |
江戸城跡(本丸・二の丸・三の丸) | 皇居東御苑 |
C-TK001b |
江戸城跡(北の丸) | 北の丸公園 |
C-TK001c | 江戸城跡(西の丸) | 皇居宮殿・宮内庁 |
C-TK001d |
江戸城跡(西の丸下) | 皇居外苑 |