江戸城跡(本丸・二の丸・三の丸)

えどじょうあと(ほんまる・にのまる・さんのまる)(Edo Castle Ruins [Honmaru, Ninomaru, Sannomaru])

【C-KT001a】探訪日:2023/9.16

【C-TK001a】江戸城跡(本丸・二の丸・三の丸) 東京都千代田区千代田1-1

【MAP】

〔駐車場所〕

【C-TK001a】江戸城跡(本丸・二の丸・三の丸)

   千代田城,江城とも呼ばれる。平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて江戸の地に最初に根拠地を置いたのは江戸重継とされる。ただ、その位置については諸説ある。
 15世紀の関東の騒乱で江戸氏が没落したのち、扇谷上杉家・上杉持朝の家臣である太田道灌が、享徳の乱に際して1457(長禄元)年、江戸城を築いた。当時は子城(本丸),中城,外城の三重構造で周囲を切岸や水堀が巡らせて門や橋で結んでいたとされ、道灌は本丸に静勝軒と呼ばれる居宅を設け、背後に閣を築いたという。道灌が上杉定正に殺害された後、江戸城は上杉氏が所有したが、1524(大永4)年には上杉氏を破った北条氏綱の支配下に入る。
 1590(天正18)年、小田原征伐で江戸城も落ちたが、豊臣秀吉による国替え指示で徳川家康が荒れ果てた江戸城に入ることになる。一説には、城の東は低地で町割ならば10町足らず、海水が入り込む茅原であったという。さらに西南の台地はどこまでも続く野原が武蔵野に連なり、城の南は日比谷入り江で、沖合に点々と砂州が現れていた地であったと伝わる。
 入城後、家康は大改修を進め、それまでの本丸,二の丸に加え、三の丸,西の丸北の丸を増築し、城下東側の日比谷入江の半分以上を埋め立て西の丸下とした。さらに、1603(慶長8)年、江戸開府して以降は天下普請による江戸城の拡張に着手。慶長期(1596~1614年)に集中的に行われ、またその後も2度ほど拡張工事が行われ、総構周囲約16kmの日本最大面積の城郭になった。
 縄張は本丸と西ノ丸が独立している一城別郭の形式である。武蔵野台地の東端にある地形を活用しており、特に山の手側は谷戸を基に濠を穿っているため曲面の多い構造をしている。
 本丸は本丸御殿を擁する江戸城並びに徳川家,江戸幕府の中心であり、本丸御殿は、将軍謁見や諸役人の執務場である表、将軍の生活空間で政務の場でもある中奥、そして将軍夫人や女中が生活する空間である大奥が南から北に並んでいた。最初の本丸御殿は1606(慶長11)年に完成したが、焼失と再建を繰り返し、1863(文久3)年の焼失以降は再建されずに、機能は西ノ丸御殿に移された。1868(慶応4)年の無血開城後に大総督・有栖川宮熾仁親王が入城したのも西の丸御殿、その後、皇居,宮城も西の丸跡に置かれた。
 本丸の天守は慶長度(1607年)・元和度(1623年)・寛永度(1638年)と3度築かれており、どの天守も鯱や破風の飾り板を金の延板で飾っていたという。しかし、1657(明暦3)年の明暦の大火で焼失して以降、幕閣重鎮の保科正之の意見により、江戸市街の復興を優先する方針となって再建は中止された。以後は、本丸の富士見櫓を実質の天守としていた。また、これ以降、諸藩でも天守の建造を控えるようになったという。
 二の丸は入国時には屋敷地で本丸の帯曲輪の様な存在であったが、慶長期に中之門が置かれ、また寛永期には拡張されて二ノ丸御殿が造られた。内部は石垣で複数に区画されている。大正時代に二ノ丸と三ノ丸の間にあった堀が埋め立てられている。
 三ノ丸は入国時は外郭とされ、日比谷入江と接しており平川を濠に見立てていた。二ノ丸拡張により敷地が大幅に減少した結果、内郭に組み込まれ小さな御殿と勘定所以外は空地となり登城大名の家臣の控え場になる。また、この時に大手門が二ノ丸から三ノ丸に移転している。
 江戸城の櫓は、三重櫓6棟,二重櫓10棟,平櫓4棟,多門櫓26棟あったとされるが、度重なる火災によって焼失し、現存するのは富士見三重櫓,桜田巽二重櫓,伏見二重櫓(西の丸)である(ただし、関東大震災後に復元)。また、多聞櫓は嘗ては本丸,二ノ丸の殆どを囲っていたが、時代を経るごとに本丸西側では塀へと置き換わっていった。
 門については外郭25棟,内郭11棟を数え、虎口は一の門である高麗門と二の門の櫓門で構成されている。三ノ丸大手門は、三ノ丸中央部の枡形虎口に桁行22間×梁間4間2尺の櫓門と高麗門で構成され、大手前を繋いだ。三ノ丸が屋敷地であった頃は下乗門が大手門であった。江戸時代には勅使の参向,将軍の出入り,諸侯の登城などはこの門から行うのが正式であった。それゆえ警備も厳重を極めた。警備要員の詰所として多くの番所があったが、現在残るのは、中之門奥下の大番所、下乗門奥と外にある百人番所と同心番所で、それぞれの門を守っていた。
 1868(慶応4)年、旧幕府陸軍総裁の勝海舟と東征軍参謀の西郷隆盛との会談による無血開城を経て、東征軍大総督・有栖川宮熾仁親王が入城し、京から江戸へ行幸した明治天皇がそのまま「皇居」へはいった(東京奠都)。また、短期間ではあるが東京城と改名されている。その後は吹上庭園が御所、旧江戸城西ノ丸が宮殿の敷地となっている。1968(昭和43)年10月、その東側にある江戸城の中心部であった天守閣,本丸,二ノ丸,三ノ丸跡一帯は「皇居東御苑」として一般に開放されるようになった。

【史跡規模】

【指 定】国特別史跡(1960年5月20日指定)

【国 宝】 

【国重文】

関連時代 平安時代:後期 室町時代 戦国時代 江戸時代:前期 江戸時代:後期
関連年号 1457年 1524年・1590年 1603年・1657年 1868年
関連人物 系図 関連人物 系図 関連人物 系図
江戸重継 H411 太田資長(道灌) G117 北条氏綱 H145
徳川家康 TG01 保科正之 G524 西郷隆盛 F630
勝 海舟 **** 有栖川宮熾仁親王 K632 明治天皇 K701

 

【C-TK001a】江戸城跡(本丸・二の丸・三の丸)
 私事イベント終了後に急遽訪れたため、15時半から17時半までの2時間でどれだけ回れるか、汗かきながらの駆け足探訪であった。そのため、撮影できなかった個所は、種々サイトから一部写真を借用させていただいた(転載の旨を表記)。機会があれば、再チャレンジしていく。

 

【C-TK001a】江戸城跡(本丸・二の丸・三の丸)
  城跡が広大なため、本サイトでの以下の4区画に区分して表示している

記号

城跡

現状

C-TK001a

江戸城跡(本丸・二の丸・三の丸) 皇居東御苑

C-TK001b

江戸城跡(北の丸) 北の丸公園
C-TK001c 江戸城跡(西の丸) 皇居宮殿・宮内庁

C-TK001d

江戸城跡(西の丸下) 皇居外苑

【江戸時代の天下普請】

時 期 年 号 普 請 内 容
慶長期 1603(慶長8)年 神田山土砂での日比谷入江の埋め立てと外濠川の工事
1606(慶長11)年 諸大名からの石材搬入による外郭石壁,石垣,本丸,城廻の増築普請と天守台の築造
1607(慶長12)年 関東・奥羽・信越の諸大名による天守台,石塁などの修築(慶長度天守が完成)
1611(慶長16)年 東国大名による西ノ丸石垣工事
1614(慶長19)年 夏から冬にかけての石壁修築
元和期 1615(元和1)年 大坂夏の陣による諸大名の疲弊のため3年間の天下普請中止を指示
1618(元和4)年 紅葉山東照宮の造営と神田川の開削
1620(元和6)年 東国大名による内桜田門から清水門までの石垣と各枡形の修築
1622(元和8)年 本丸拡張工事と天守台,御殿の修築(元和度天守が完成)
1624(寛永1)年 隠居所としての西ノ丸殿舎の改造
寛永期 1628(寛永5)年 本丸,西丸工事と西ノ丸下,外濠,旧平河の石垣工事および各所の城門工事
1635(寛永12)年 二ノ丸拡張工事
1636(寛永13)年 濠担当58大名石垣担当62大名による飯田橋から四谷・赤坂を経て溜池までの掘抜き、および石垣・城門の外郭修築工事
1637(寛永14)年 天守台,御殿の修築(翌年に寛永度天守が完成)
普請終了

1660(万治3)年

神田川御茶ノ水の拡幅工事

【C-TK001a】江戸城跡(本丸・二の丸・三の丸) ※本サイトの写真は転用可です(画像をピックすると拡大、コメント表示されます)

大手門 大手門 大手高麗門 大手渡櫓門 大手下乗門跡 同心番所 同心番所 大手三之門 百人番所 【「江戸東京歴史文化ルネッサンス」より転載】中之門跡 【「攻城団」より転載】大番所 白鳥濠 白鳥濠 二の丸庭園 二の丸庭園 汐見坂 大奥跡 本丸跡(中奥,表御殿方面) 本丸跡(富士見多聞方向) 【転載】石室 【転載】石室 蓮池濠の向こうは西の丸 富士見櫓 【転載】富士見櫓 天守台 天守台 天守台 天守台 【「攻城団」より転載】西桔橋門跡 北桔橋門 梅林坂 平川濠 平川渡櫓門 平川渡櫓門 平川渡櫓門 平川高麗門 桜田巽櫓 桜田巽櫓(左奥に桔梗門が見える) 【「日本の城写真集」より転載】桔梗門(内桜田門) 【転載】桔梗門(桝形からの渡櫓門) 竹橋門跡 竹橋門跡