高取城跡
たかとりじょうあと (Takatori Castle Ruins)
【C-NR003】探訪日:1990/11/17・2018/10/29
奈良県高市郡高取町高取
【MAP】
〔駐車場所〕
1332(元弘2/正慶元)年、越智邦澄によって築城されたのが始まりと伝えられる。当初は越智氏の本城である貝吹山城の支城として機能していた。越智氏の支配が長く続き、戦国時代には高取城が越智氏の本城となっていた。
1532(天文元)年6月、本願寺法主・証如の名で蜂起し法華宗(三好元長を仏敵)との戦いであった一向一揆は、元長自害後も収まらず、7月には興福寺に攻め寄せて多くの伽藍を焼き、略奪,横行(猿沢池の鯉や春日大社の鹿も食い尽くされたと言われる)をはたらき南下して越智氏が籠る高取城の攻撃を始めた。しかし、8月に筒井氏,越智氏と十市遠治の援軍に挟撃され一揆勢は吉野へと撤退した。この一件により、本願寺は面目を失墜して奈良の永代禁制を受け入れざるを得なくなった。
その後、織田信長によって大和国内は郡山城一城と定められ、高取城は1580(天正8)年に一旦は廃城となり、1583(天正11)年8月に筒井順慶の配下となっていた越智玄蕃頭頼秀が殺害され、越智氏は滅亡した。1584(天正12)年には筒井順慶が支城網の一つとして本格的城塞へと改めた。
翌1585(天正13)年、豊臣秀長が郡山城に入城し、高取城には秀長の重臣・脇坂安治が入り、後に同じく重臣の本多利久に与えられた。1589(天正17)年、利久は家臣の諸木大膳に命じて新たな縄張りをもって築造した。本丸には多聞櫓で連結された3重の大小天守、二の丸には大名屋敷が造営され、城内には三重櫓が17基建ち並んだ。また、郭内には侍屋敷も整備され、他には類を見ない広壮な山城が出現した。
利久の子・俊政は秀吉の直臣となり1万5千石が与えられたが、秀吉没後の混乱期に徳川家康についた。1600(慶長5)年、俊政は家康の上杉景勝討伐軍に加わり不在であったが、俊政の従弟・正広が石田三成が差し向けた西軍を敗退させている。俊政は関ヶ原の戦いの後、東軍に付いた功を認められ、1万石の加増を受け高取藩2万5千石の初代藩主となった。
本多氏廃絶(俊政の子・政武に嗣子なく没す)の後、桑山一玄と小出吉親が城番となったが、1640(寛永17)年に旗本の植村家政が大名に取り立てられ新たな城主となって以降、明治維新最後の植村家壷まで植村氏が14代にわたって城主となった。幕末には、山上二の丸にあった藩主御殿は山麓に移され、天誅組の変で攻撃を受けた。
城は標高583m,比高350mの高取山山上に築かれ、白漆喰塗りの天守や櫓が29棟建て並べられた連郭式の構造で、城内面積は約10,000㎡、周囲は約3Kmに及ぶ国内最大規模の山城として備中松山城,岩村城とともに日本三大山城の一つに数えられる。
【史跡規模】 |
【指 定】国指定史跡(1953年3月31日指定) 【国 宝】 【国重文】 |
関連時代 | 鎌倉時代 | 戦国時代 | 安土桃山時代 | 江戸時代:前期 |
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関連年号 | 1332年 | 1532年・1580年・1584年・1585年・1589年 | 1600年 |
1640年 |
関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 |
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越智邦澄 | **** | 本願寺証如 | F336 | 十市遠治 | **** |
筒井順慶 | MW21 | 越智頼秀 | **** | 脇坂安治 | FX01 |
本多利久 | F50* | 諸木大膳 | **** | 本多利久 | F50* |
本多俊政 | F50* | 本多正広 | F50* | 本多政武 | F50* |
桑山一玄 | F997 | 小出吉親 | F031 | 植村家政 | G138 |
植村家壷 | G138 |
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▲壷坂口門跡
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▲壷坂口中門跡
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▲大手門跡
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▲大手門跡
▲十三間多門跡
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▲二の丸
▲土塁
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▲十五間多門跡
▲太鼓櫓跡,新櫓跡
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▲本丸へ
▲本丸への虎口
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▲楠井戸跡
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▲本丸跡
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▲前方は太鼓櫓跡
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▲天守台