上和田城跡

かみわだじょうあと(Kamiwada Castle Ruins)

【C-AC637】探訪日:2013/5.26・2023/8.18

【C-AC637】上和田城跡 愛知県岡崎市宮地町北浦

【MAP】

〔駐車場所〕上和田公民館の駐車場を利用させていただく。

【C-AC637】上和田城跡

   築城年は定かではないが、三河国上和田郷を支配していた大久保氏の居城である。大久保一族発祥の地でもある。南北朝時代に下野国の豪族・宇都宮氏の支族である武茂泰藤が三河国上和田郷に来住したのに始まり、孫の泰道から宇津氏を称し、忠俊のときに大久保氏に改めた。大久保氏一党は、上和田村内の各地にそれぞれ屋敷を築き、松平宗家に仕えて勢力を広げていった。
 天文年間(1532~55年)に尾張の織田信秀が松平方の安祥城を攻め落とすと、織田方に内通し松平広忠に逆心した佐々木城主・松平三右衛門忠倫が上和田城を支配するようになり、大久保忠員,忠世父子は羽根へと退避し、羽根東城羽根西城を築いている。なお、松平忠倫は1547(天文16)年に松平広忠によって暗殺されたため、大久保氏は上和田城を取り戻したと思われる。1560(永禄3)年には『三河物語』の著者である大久保忠教(彦左衛門)が当地で生まれている。
 1563(永禄6)年に三河一向一揆が起こると、大久保忠俊は屋敷を砦に改修して家康方として奮戦した。その後も大久保氏は徳川氏へ仕え、忠世のときに二俣城主、忠世の嫡子・忠隣は小田原城主となる。
 城跡は現在の上和田説教所,上和田公民館辺りから南屋敷(地名)の区域とされ、西側には和田城用心壕跡の碑が民家の中に建てられている。なお、武茂泰藤の墓は宮地町の妙国寺境内に、大久保一族の墓は竜泉寺町の長福寺墓地にある。

【史跡規模】

【指 定】

【国 宝】 

【国重文】

関連時代 南北朝時代 戦国時代
関連年号 1532~55年・1563年
関連人物 系図 関連人物 系図 関連人物 系図
武茂泰藤 F647 宇津泰道 F647 大久保忠俊 F650
大久保忠員 F651 大久保忠世 F652 松平忠倫 MT**
大久保忠教 F651 大久保忠隣 F652

 

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北から見る 左側の民家の庭に和田城用心壕跡の碑がある 城跡南にある比蘇天神社