佐々木城跡
ささきじょうあと(Sasaki Castle Ruins)
【C-AC664】探訪日:2023/9.7
愛知県岡崎市上佐々木町梅ノ木34
【MAP】
〔駐車場所〕上宮寺駐車場を利用する。
築城年は定かではないが、戦国時代、長沢松平家の庶流(信光の弟・久親の後裔とも)の松平三左衛門忠倫の居城とされる。
1540(天文9)年、尾張国の織田信秀が松平方の安祥城を奪取すると(安城合戦)、忠倫は織田方に内通し、渡と筒針に砦を構えて松平宗家8代・松平広忠に敵対した。1542(天文11)年頃には大久保氏の居城・上和田城に移って岡崎城を伺っていたが、1547(天文16)年10月、松平広忠は刺客・筧重忠を送り忠倫を暗殺させた。1551(天文20)年になると、今川義元は忠倫の弟で梅森北城主であった弟の松平三蔵信次(忠倫暗殺後、駿河国へ逃げていた)に兄の旧領佐々木郷を与え、佐々木城主とした。
桶狭間の戦いで今川義元が討死すると、信次の子・松平三蔵忠就は三河統一を目指す松平元康と再び敵対することとなる。1563(永禄6)年、佐々木城内に建つ上宮寺などが三河一向一揆を起こすと、三蔵は荒川頼持,松平七郎昌久,酒井将監忠賀,松平監物家次らとともに一揆方に属した。しかし、翌年、上宮寺の守将・矢田作十郎の討死で一揆は鎮圧、家康方の勝利となる。佐々木城はこの時、廃城になったとされる。その後の佐々木松平氏の動向は不明。
一向一揆前までは、上宮寺も本證寺と同じく城郭寺院で、北東南を妙覚池に囲まれ、三方には土塁と堀が巡らされ、西にも土塁があったという。現在は遺構はほとんど残っていないが、東方に土塁だけが残されている。
【史跡規模】 |
【指 定】 【国 宝】 【国重文】 |
関連時代 | 戦国時代 |
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関連年号 | 1540年・1542年・1547年・1551年・1563年 |
関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 |
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松平忠倫 | MT** | 筧 重忠 | **** | 松平信次 | MT** |
松平忠就 | MT** | 矢田作十郎 | **** | 松平元康 | TG01 |