天方本城(天方古城)跡
あまがたほんじょう(あまがたこじょう)あと(Amagata Old Castle Ruins)
【C-SZ108】探訪日:2023/11.25・12.9
【MAP】
〔駐車場所〕
築城年は定かではないが、応永年間(1394~1427年)に山内対馬守道美が築城したという。飯田荘の地頭であった首藤山内氏から分かれ、14世紀後半(南北朝後期~室町初期)に山内豊後守通秀が天方本城に住し、天方氏を称したという。
1494(明応3)年、今川氏親は伊勢新九郎盛時(のちの北条早雲)を大将とする大軍を侵攻させ、中遠三郡(佐野郡,山名郡,周智郡)を席捲したため、城主の天方通季は今川氏に降った。
1501(文亀元)年、遠江守護の斯波氏は信濃の小笠原氏と連合して今川方の座王(久野)城と天方本城を攻めた。通季は一旦は斯波の大軍襲来の前に城を捨てて今川方に身を寄せたが、その後、今川方の武将の本間宗季らとともに城を奪還している。戦後、堅固な城の必要性を痛感した通季は城の南側の三倉川対岸に要害堅固な白山城を築いた。さらに戦国乱世になると、孫の天方通興が天方新城(従来は天方城と呼ばれていた)を築く。
1569(永禄12)年6月19日、遠江に侵攻した徳川家康への従属を拒んだため、天方本城と白山城は攻略され、天方通興は降伏した。1572(元亀3)年には武田方の手に落ちたが、翌1573(元亀4)年3月、失地回復に出た徳川家康は平岩親吉を総大将とする1,000余名の軍で再び天方本城と白山城を攻略した。天方通綱は当初、反徳川の態度をとったが、降伏し許されている(白山城の城将だった久野宗政は甲斐へと遁走した)。
天方本城は三倉川と吉川の間に位置する標高161ⅿ,比高90ⅿの本庄山(本城山)に築かれている。天方小学校,大鳥居八幡宮の北側にあたる。山頂最高部が主郭で南西側に少し低い腰曲輪を挟んで楕円状の櫓台があり、さらにその先が「馬場平」と称される広い曲輪となっている。主郭の北西へ細い尾根を進むと二の曲輪がある。また、主郭の東側の尾根にも細長い「城の腰」が伸び、横堀,腰曲輪を付けている。この尾根が城の大手にあたり登城路と考えられている。やはり全体的には戦国期後半の城砦と比べると加工度は低い。