白山城跡

はくさんじょうあと(Hakusan Castle Ruins)

【C-SZ107】探訪日:2023/11.25・12.9

【C-SZ107】白山城跡  静岡県周智郡森町城下字白山

【MAP】

〔駐車場所〕東の太林寺墓地の駐車場に停めさせていただく。

   近年確認された城跡である。山頂に白山権現が祀られていたことから、白山城と命名された(築城時の名は不明、天方城とも)。1501(文亀元)年に遠江守護の斯波氏が天方本城を占拠したが、その後、天方通季,本間宗季ら今川方が奪還し、戦後、天方氏は三倉川対岸に要害堅固なこの城を築いた。
 戦国乱世を備え天方山城守通興は、より堅固な城塞を求めて天方新城(従来は単に天方城)を築き、白山城はその支城となったと考えられる。今川氏が衰退し、1569(永禄12)年に徳川家康に攻撃されると、通興は家康の軍門に降った。1572(元亀3)年10月、武田信玄が西上作戦で遠江へ進出した際には、一戦も交えることなく家康方に身をよせたという。先の徳川家康侵攻により甲斐国へ落ち延びていた遠江国衆,土豪たちは武田軍として旧領に戻り、白山城へは久野弾正忠宗政が城将として入ったが、1573(元亀4)年3月、徳川家康は、再び平岩親吉を総大将として周智郡一帯の城を攻略した。久野宗政は甲斐へと遁走した。1574(天正2)年の遠江国犬居城攻めでは、通興は大久保忠世に属して案内役を務めている。
 白山城跡は谷本神社の北背後の比高80mほどの山稜にあり、主郭を中心にしたX字状に細長い曲輪が配されているが、各曲輪は痩せ尾根上のため小規模である。その途中には堀切、側面には竪堀が設けられている。北東の麓の三倉川に沿った台地付近(城藪)は天方氏家臣の屋敷跡と伝わる。

【史跡規模】

【指 定】

【国 宝】 

【国重文】

関連時代 戦国時代
関連年号 1501年・1569年・1572年・1573年・1574年
関連人物 系図 関連人物 系図 関連人物 系図
天方通季 F948 天方通興 F948 徳川家康 TG01
久野宗政 F026 平岩親吉 MB08

 

【C-SZ107】白山城跡
 最初に訪れたときは登り口が見つからず直登することとしたが、後から縄張図を確認すると、下図③のところの竪堀を登ったことに気づいた。木々の密度は低く掴める木の根もあまり無い上に、ひじょうに斜面の土が崩れやすく、敵の侵入防護としては有効だなと実感した(当然、木は生えていないだろうし)。2回目の登城もはっきりとした登り道は見つからなかったが、1回目の経験から谷本神社方面から登ることとし、南側の腰曲輪群の横に出ることができた。

 

【C-SZ107】白山城跡

白山城縄張図(『静岡県の城跡 中世城郭縄張図集成(西部・遠江国版)』に加筆)

【C-SZ107】白山城跡 ※本サイトの写真は転用可です(画像をピックすると拡大、コメント表示されます)

遠景 谷本神社 神社の右側から登った 登り口 主郭東南に続く段状の腰曲輪 南側の腰曲輪 竪堀 主郭南側の堀切 主郭南側の堀切 左側が馬出曲輪 主郭 主郭 主郭 主郭 主郭に残る台座 二の曲輪へ向かう 二の曲輪へ向かう 二の曲輪 二の曲輪の先端 主郭から馬出曲輪へ 馬出曲輪 馬出曲輪先端の堀切 主郭から三の曲輪へ 主郭下の堀切 三の曲輪 三の曲輪の先の堀切 三の曲輪の先の堀切