水口城跡
みなくちじょうあと (Minakuchi Castle Ruins)
【C-SG014】探訪日:1990/11/10・2016/09/24
滋賀県甲賀市水口町本丸小字中邸
【MAP】
〔駐車場所〕
1634(寛永11)年、3代将軍徳川家光が京都上洛の際の宿館として築かせた。作事奉行は小堀政一(遠州)が務め、城内には二条城の御殿を模した豪華な御殿が築かれた。しかし、この御殿が将軍の宿舎として使われたのは、この家光上洛の1回限りで、その後同城は、幕府の任命した城番が管理する番城となった。
1682(天和2)年に加藤明友が2万石で入城し、水口藩が成立。それまで幕府お抱えの宿館として城番をおいて管理していたが、水口城は同氏の居城となった。鳥居氏が一時藩主となったが、再び加藤氏が2万5千石で藩主となった。歴代水口藩は同城を幕府から借りている城として大切に管理し、本丸部の御殿を使用せず、藩の行政諸々は二の丸で行った。本丸御殿は家光上洛以後使われることなく正徳年間に解体。本丸は空き地のまま使用されることなく明治維新を迎え、水口城は廃城となった。
城の建物の構成は、水堀に囲まれた本丸と管理施設のある二の丸による2郭で、二の丸に堀はなく土壁のような柵で城域を囲い、城内と城外を別けていた。本丸は平面規模で南北75間,東西73間、東に外枡形の出丸を突出して凸形をなしている。本丸東の出丸部分に大手虎口、本丸北には二の丸主要部に直に通じる北虎口の2箇所の虎口を開け、それぞれに櫓門と高麗門でなる枡形門を構成していた。“御なり橋”は、将軍の御成の際に使用されたものである。本丸の外枡形を形成する部分以外の正方形部の四隅には御矢倉とよばれる平櫓が建てられた。ほぼ東西南北の正方形構造なので、それぞれ方角にちなみ艮矢倉、巽矢倉、坤矢倉、乾矢倉の名が付けられた。堀の水は湧水を利用しているといわれ、水深は15mもある薬研堀であるという。水口城が碧水城とよばれる所以は涌水だけを使用していたためとされる。御成門付近の石垣と乾櫓の石垣は、中村一氏が築城した岡山城(水口古城)から運んだ石で積まれているとされる。
水口城は明治維新後廃城となったが本丸跡地のみ保存され、現在は水口高校のグランドとして使用されている。グランドの周囲には土塁が残り、その外周には水堀が巡り、北西角には乾櫓の櫓台が良好な状態で残っている。