守山城跡

もりやまじょうあと (Moriyama Castle Ruins)

【C-AC141】探訪日:2016/5/15

【C-AC141】守山城跡 愛知県名古屋市守山区市場4-22

【MAP】

〔駐車場所〕

【C-AC141】守山城跡

   大永年間(1521~28年)に今川氏親が尾張進出の拠点として那古野城(城主今川氏豊)を築いた際、小幡城,川村城の備えとして松平信定によって築かれたとされる。その後、松平信定の娘婿であり織田信秀の弟の織田信光の城となる。
 1535(天文4)年、三河国を統一した松平清康は織田信秀と戦いを続ける織田寛故を支援するために尾張の守山城へ進軍するが、清康の家臣阿部定吉が信秀と内通しているという噂が流れ、清康の本陣での馬離れの騒ぎを定吉の嫡男弥七郎正豊が父が忙殺されたと勘違いし、本陣にいた清康を背後から惨殺するという守山崩れが起きる。
 1555(弘治元)年、織田信長,信光により清洲織田氏(織田大和守家)の織田信友が滅ぼされると、信長が清州城、信光が那古野城に移り、守山城には信光の弟の信次が入った。しかし、早々に家臣洲賀才蔵が信長の弟秀孝を殺害するという事件を起こし出奔。城下は、秀孝の兄である信行(信勝)の兵により焼き払われた。信次の重臣角田新五らは城に立て籠もっていたが、佐久間信盛の働きにより信長の異母弟の信時を城主とすることで決着した。しかし、信時は他の家臣を重用したため角田新五により切腹させられ、城には再び新五一派が立て籠もった。その後、帰参を許された信次が城主に復帰した。
 1573(天正元)年、浅井長政の小谷城が攻め落とされた際、救出されたお市の方と茶々,初,江の三姉妹は信次に預けられ、守山城に1年間ほど滞在していたことが明らかになっている。なお、信次は1574(天正2)年、長島一向一揆戦において戦死した。廃城時期は、信次の死後とも小牧長久手の戦いの後とも言われる。
 『尾州古城志』によると、規模は東西に約58m,南北に約51m、四方には堀が廻らせていたといわれる。現在宝勝寺が建つ一区画が城跡とされ、寺院の裏手の竹薮にある空堀をはじめ、本丸があったとされる土壇の一部などが残されている。

【史跡規模】

【指 定】
【国 宝】

【国重文】

関連時代 戦国時代
関連年号 1521~28年・1535年・1555年・1573年・1574年
関連人物 系図 関連人物 系図 関連人物 系図
今川氏親 G360 今川氏豊 G360 松平信定 MT31
織田信光 OD02 松平清康 MT01 織田信秀 OD03
織田寛故 OD01 阿部定吉 **** 阿部正豊 ****
織田信長 OD04 織田信友 OD02 織田信次 OD02
洲賀才蔵 **** 織田秀孝 OD03 織田信行(信勝) OD09
織田信時 OD02 角田新五 **** 佐久間信盛 H503
お市の方 OD03 浅井茶々 F526 浅井 初 F526
浅井 江 F526

 

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▲本丸にあった土壇の一部

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▲城址碑

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▲城址碑

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▲堀跡

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▲堀跡

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▲宝勝寺

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▲宝勝寺

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