猿啄城跡

さるばみじょうあと(Sarubami Castle Ruins)

【C-GF077】探訪日:2024/5.5・5.18

【C-GF077】猿啄城跡 岐阜県加茂郡坂祝町勝山934-1

【MAP】

〔駐車場所〕登り口に駐車場がある。

【C-GF077】猿啄城跡

   猿飛城,根尾山城,勝山城とも呼ばれる。築城年は定かではないが、1407(応永14)年頃に西村豊前守善政によって築かれたとされる。1441(嘉吉元)年、善政が祖母の法要のために城を留守にした際に、田志見の城主・修理大夫頼吉が城を略奪した。
 1530(享禄3)年、田原左衛門が城主となったとされる。1547(天文16)年には多治見修理が城を略奪する。
 1565(永禄8)年、織田信長が丹羽長秀を総大将として東美濃攻略(堂洞合戦)を開始すると、丹羽長秀の先鋒であった河尻秀隆が猿啄城を攻略し落城させると、信長は緒戦の勝利に幸先よしと城名を勝山城と改称し、秀隆がそのまま猿啄城城主となった。多治見修理は斎藤氏に属する堂洞城の岸信周の許へ落ち延びたという。
 1575(天正2)年、河尻秀隆が岩村城に移ったことで廃城となった。
 城は美濃国と尾張国の境の木曽川の北に位置する標高275.3mの勝山山頂に築かれている。主郭(山頂)の西側尾根の鞍部に堀切と土橋を確認できる。また、中腹に曲輪跡らしき個所がみられる。現在は山頂に展望台が設置され、手軽なハイキングコースとなっている。

【史跡規模】

【指 定】坂祝町指定史跡(2000年9月26日指定)

【国 宝】

【国重文】

関連時代 室町時代 戦国時代
関連年号 1407年・1441年 1530年・1547年・1565年・1575年
関連人物 系図 関連人物 系図 関連人物 系図
西村善政 **** 修理大夫頼吉 **** 田原左衛門 ****
多治見修理 G146 織田信長 OD04 河尻秀隆 G79*

 

【C-GF077】猿啄城跡
  

 

【C-GF077】猿啄城跡

【C-GF077】猿啄城跡 ※本サイトの写真は転用可です(画像をピックすると拡大、コメント表示されます)

県道207号線からみえる猿啄城展望台(右の山の頂き) 登山口 ほとんどこのような階段が続く(左は河尻肥前大神と阿古太丸大神の碑) 左は「らくらくコース」、右は「はりきりコース」 途中、曲輪と思われる個所 主郭の虎口側を見る 虎口 主郭 展望台から見た主郭 迫間城跡への道(迫間不動尊からのルートもある) 主郭から西側へ下りる 堀と土橋 堀底から土橋を見る 展望台から見た南西方向の眺望 展望台から見た北東方向の眺望 迫間城方向(見えませんが)