田城城跡
たしろじょうあと(Tashiro Castle Ruins)
【C-ME160】探訪日:2024/12.26
三重県鳥羽市岩倉町1109-1
【MAP】
〔駐車場所〕
築城年は定かではないが、最初は田城左馬之助によって築かれたとされる。その後、天文年間(1532〜55年)に志摩の波切城主で九鬼嘉隆の祖父である九鬼泰隆が伊勢国司・北畠氏より二見七郷と加茂五郷を与えられ、築城という。
1551(天文20)年、九鬼定隆(泰隆の子)の死去により、家督は長兄である浄隆が継ぎ、田城城主となる。弟の嘉隆は波切城主となった。
1560(永禄3)年、九鬼の勢力が大きくなり他の地頭との対立が目立つようになると、志摩七島党(安楽島・相差・国府・甲賀・和具・小鹿・浜島)は伊勢国司・北畠具教の援助を得て、田城城を攻めた。浄隆は、波切城より救援に馳せ参じた弟の嘉隆とともに防戦するも、戦の中で病に臥し死去した(討死とも)。嘉隆は浄隆の子・澄隆と共に朝熊山へ逃れた。
その後、嘉隆は滝川一益の仲介により織田信長に仕えるようになり、1569(永禄12)年の信長の北伊勢侵攻に活躍し、翌年には志摩十三地頭を攻略して志摩国の統一を果たした。このとき、田城城を奪還し、自ら城主として入ったとされる。嘉隆は水軍を率いて、伊勢長島の一向一揆鎮圧や大坂本願寺の海上封鎖に貢献し、信長から嘉隆の志摩国領有と九鬼氏の家督を澄隆から継ぐことを認められた。ただ一説には、1583(天正11)年に嘉隆が鳥羽主水に澄隆を暗殺させ家督を奪ったともいわれる。
1585(天正13)年、嘉隆は本拠地として鳥羽城の築城に着手したことで、田城城は次第に使われなくなったと考えられる。ただ、1600(慶長5)年の関ケ原の戦いの際には、石田三成に協力した九鬼嘉隆は田城城にて籠城し、東軍と一戦を交えて答志島へ逃亡したという(嫡男の九鬼守隆は徳川家康に味方していた)。
田城城は加茂川に河内川が合流する地点の南の丘陵(標高30m,比高10m)に築かれており、当時は周りは湿地帯で要害の地だったとされる。現在の丘陵は土取りなどで大きく削られ、わずかに空堀が残っているのみである。丘陵上には、澄隆の怨霊を鎮めるために1626(寛永3)年に九鬼守隆によって建立された九鬼惣領権現が祀られている。なお、九鬼岩倉神社は、九鬼惣領権現を祀る九鬼神社に加茂神社,萩原神社,八幡神社を合祀している。