徳島城跡
とくしまじょうあと (Tokushima Castle Ruins)
【C-TS001】探訪日:2019/7/20
徳島県徳島市徳島町城内
【MAP】
〔駐車場所〕
1385(至徳2)年に細川頼之が渭津城を築いたのが始まりとされるが、現在の徳島城は、1585(天正13)年、羽柴秀吉による四国征伐によって蜂須賀家政が阿波17万石を領して入部し築いたものである。当初は一宮城を居城としたが、入封早々にこの地に大規模な平山城を築造し、1年半後の1586(天正14)年に完成した。以後、江戸時代を通して徳島藩蜂須賀氏25万石の居城となり、明治維新を迎える。
吉野川河口付近の中洲に位置する標高61mの城山に築かれた山城と城山の周囲の平城からなる連郭式平山城である。山頂の本丸から東西に伸びた尾根に曲輪群を配している。本丸が最も広く、東,西,北の三方に虎口を開く。南東下には東二の丸があり、ここに天守が聳えていた。二の丸に天守があるのが徳島城の特徴である。創建当時の天守は元和年間(1615~24年)に取り壊されたといわれており、まもなく、城山の中腹にある東二の丸に天守代用の御三階櫓が構えられた。なお、最初の天守は本丸の西端にある弓櫓の所にあったとも推測されている。本丸から西へ降ると西二の丸、そして水道施設となった西三の丸と続く。麓には南に江戸時代に徳島城を建築した際に蜂須賀氏が正門として建てたとされる鷲ノ門が復元され、そこから下乗橋を渡って枡形を入る。西には太鼓櫓、東には月見櫓跡があり、内部は表御殿庭園が整備されている。
1873(明治6)年の廃城令により存城処分となり、1875(明治8)年には鷲ノ門を除く御三階櫓以下の城内すべての建築物が撤去された(鷲ノ門は1945年の徳島大空襲で焼失)。
【史跡規模】 |
【指 定】国指定史跡(2006年1月26日指定) |
関連時代 | 南北朝時代 | 戦国時代 | 明治時代 |
関連年号 | 1385年 | 1586年 | 1875年 |
関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 |
細川頼之 | G*** | 蜂須賀家政 | G322 |
あまり事前調査をせず訪れたため、鷲の門や西二の丸,西三の丸を見落としてしまった。写真の最初の4枚は「城郭放浪記」から転載させて頂いた。そもそも助任川側の裏手より入城したため、大手門から外へ出ることなく線路上の歩道橋を渡り、次の史跡へ急いでしまった。機会があれば再度訪れたい。
※本サイトの写真は転用可です(ダウンロードすると、より鮮明に見えます)
▲【転載】復元された鷲ノ門
▲【転載】復元された鷲ノ門
▲【転載】大手門
▲【転載】大手門
▲大手門
▲太鼓櫓跡
▲太鼓櫓跡
▲蜂須賀家政公銅像
▲説明板
▲蜂須賀家政公銅像
▲
▲
▲
▲
▲本丸跡への階段
▲石垣
▲東二の丸跡
▲東二の丸跡
▲天守跡
▲本丸跡の石垣
▲本丸跡の石垣
▲本丸跡へ
▲「本丸跡」説明板
▲本丸跡
▲本丸跡
▲本丸跡
▲弓櫓跡
▲弓櫓跡
▲弓櫓横の虎口
▲弓櫓横の虎口
▲
▲
▲「城山の貝塚」説明板
▲城山の貝塚
▲城山の貝塚
▲海蝕痕
▲
▲
▲
▲
▲