真田山城跡
さなだやまじょうあと (Sanadayama Castle Ruins)
【C-SZ010】 探訪日:1995/3/5
2016/3/25
静岡県周智郡森町一宮字真田
【MAP】
〔駐車場所〕
築城年代は定かではないが、1545(天文14)年に武藤氏定によって築かれたとされる。武藤氏が一宮領に赴いたのは1180(治承4)年、武藤五郎が安田義定の五家老の一人にして、目代として当地に移り住んだのが始まりとされる(五郎は、1194(建久5)年に安田義定が鎌倉で梟首された際に殉死)。以後の武藤氏は当初は、草ヶ谷城(現在の香勝寺)に居住していた。
室町時代には武藤用定が幕府の奉公衆として将軍に忠勤を励んだが、戦国時代に入ると将軍家への忠勤も意味を失くし、今川氏の被官となった(詳細は不明)。そして、武藤氏定の時代に草ヶ谷城の跡地に香勝寺を建て真田山に新たに築城。真田山城は遠江国一宮小國神社に至る街道の東側にあり、南へ張り出した尾根の頂部から西へ伸びた尾根に築かれている。主郭は山頂からやや西側にあり、北東側に高土塁を設け、西と東に虎口を有する。主郭の高土塁の東側には堀切があり、そのまま竪堀となって南へ伸びており、この竪堀の西側は竪土塁となって南側の横堀と隣接し主郭の東側虎口に至る。堀切の東側の山頂部は物見台とされる。
元亀,天正年間(1570~1581年)、武藤氏定は今川氏を離れ武田信玄に臣従し、真田山城は武田氏によって改修されたという。1572年(天亀3年)には徳川家康に攻められ一時甲斐国へと逃れたが、1572(元亀3)年には武田氏の遠州攻略とともに当地に戻る。そして、1581(天正9)年、武田勝頼に仕えていた武藤氏定は、徳川家康に攻められ高天神城へと逃れたが、その高天神城も徳川軍に落とされ、氏定は戦死した。敗れた武藤一族は帰農し、亀甲村(現在の掛川市)へ移ったとされる。
【史跡規模】 |
【指 定】 |
関連時代 | 平安時代:後期 | 鎌倉時代 | 戦国時代 |
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関連年号 | 1180年 | 1194年 | 1572年・1581年 |
関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 |
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武藤頼高 | F972 | 安田義定 | G481 | 武藤用定 | F972 |
武藤氏定 | F972 | 武田信玄 | G433 | 徳川家康 | TG01 |
武田勝頼 | G432 |
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▲主郭
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