千種城跡
ちくさじょうあと (Chikusa Castle Ruins)
【C-ME016】探訪日:2015/9/19
三重県県三重郡菰野町大字千草851
【MAP】
〔駐車場所〕
築城年代は定かではないが、正平年間(1334~69年)に千種忠顕の子・顕経によって築かれ、鵜川原の禅林寺城から移ったと伝えられる。千種氏は南朝方として活躍し、三重郡二十四郷を与えられ北勢48家の豪族1000騎をその支配下においていた。
1555(弘治元)年、近江国佐々木六角義賢が北伊勢に侵攻すると、当時の城主・千種忠治は後藤但馬守賢豊の弟を養子に迎え千種三郎左衛門忠基として和睦した。以後六角氏の北伊勢侵攻の拠点となった。
さらに1568(永禄11)年、織田信長が滝川一益をして北伊勢を攻めたときは北勢の諸家と共にその軍門に降った。1584(天正12)年には羽柴秀吉と織田信雄の対立により、秀吉が蒲生氏郷に千種城を攻めさせ、このとき落城している。
1615(慶長20)年、千種顕理が大坂夏の陣で討死したことで千種家は断絶、廃城となった。
城は鈴鹿山脈の支脈が東へ張り出した丘陵(標高110m,比高20m)に築かれており、西側の主郭と東側の出丸に分かれ、その間は空堀で仕切られている。主郭へ至る虎口は空堀の中央に土橋を架けられ、空堀に面した土塁が続く。
なお、南の向城、東の金ヶ原城はこの城の支城といわれている。鵜川原の禅林寺は千種家の菩提寺である。