入尾城跡
いりおじょうあと (Irio Castle Ruins)
【C-AC425】探訪日:2021/7/18
愛知県瀬戸市鹿乗町
【MAP】
〔駐車場所〕
築城年代は定かではないが、1129(大治4)年に尾張国山田庄内水野郷へ入郷した平(滝口)景貞が水野氏を名乗り、保元,平治(1156~59年)の頃に築城したとされる。水野四郎景俊(景貞の子)の子・水野三郎高家は、治承・寿永の乱の頃(1180~85年)に山田庄内志田見郷の郷司職に補され、志段味郷や水野郷を支配下においた。
1221(承久3)年の承久の乱では、水野高康,弟で志段味城の志談高重,行高および高康の嫡男・有高らは、山田重忠に属して後鳥羽上皇方として鎌倉幕府と戦ったが、一族の多くを失った。その後、高康は弟の高俊を養子として自らは京に移り住んだ。
南北朝時代には、水野致国と水野致顕に内紛が生じ、観応の擾乱が始まると、それぞれ足利尊氏側と直義側とに分かれて戦った。致国は1335(建武2)年に入尾城の南東約2kmに大平山城を築いている。致顕は新田義興より上総国や武蔵国に所領を与えられ、主に関東で戦った。この頃、一族の水野良春が志段味郷の南を開墾し新居村を開拓している(のちに新居城築城)。そして、1413(応永19)年冬、致顕の子・水野致高が城内で没すると、入尾城は廃城となった。
八幡社から東の一帯が城跡と伝わり(東西58m,南北56m)、南には東谷山が聳え、北東西の三方には庄内川と水野川が流れる自然の要害を利用した城であった。庄内川の主要な渡しの一つである「入尾の渡し」もあり、交通の要所でもあった。