岡豊城跡

おこうじょうあと (Okou Castle Ruins)

【C-KC002】探訪日:2019/7/21

  高知県高知市丸ノ内1丁目2-1

【MAP】

〔駐車場所〕

   鎌倉時代初期に、信濃より土佐へ移住した長宗我部能俊が土佐長宗我部氏の始まりとされる。長宗我部氏はもともと宗我部氏であったが、長岡郡の”長”を付し、隣の香美郡の宗我部氏(香宗我部氏)と名乗りを違えた。岡豊城は、この13世紀~14世紀頃に長宗我部氏によって岡豊山(標高97m)に築かれたと考えられている。
 応仁の乱後の1507(永正4)年に管領の細川政元が暗殺されたのを機に、土佐には長宗我部氏,本山氏,山田氏,吉良氏,安芸氏,大平氏,津野氏の「土佐七雄」と呼ばれる有力国人の抗争が表面化し戦国時代へとはいっていく。翌年の1508(永正5)年には、本山氏,山田氏,吉良氏などの連合軍によって岡豊城は落城する。岡豊城主の長宗我部兼序は土佐国内に亡命し、1511(永正8)年に本山氏や山田氏と和睦して岡豊城主に復帰した。1518(永正15)年頃には息子の国親へ家督を譲っている。
 国親は岡豊城を足掛かりに土佐の有力大名へと成長し、一条氏,本山氏,安芸氏とともに土佐を四分するまでになった。そして、1574(天正2)年、主家であった一条兼定を豊後に追放し土佐を平定し、1585(天正13)年には四国を統一した。しかし同年、羽柴秀吉の侵攻に降伏し土佐一国に押し込められた。この後、1588(天正16)年、大高坂山城(現在の高知城)に本拠を移したが、治水の悪さから再び岡豊城を本拠としている。しかし、1591(天正19)年、新たに浦戸城を築いて移ることで、長宗我部氏累代の本拠となった岡豊城は廃城となった。
 現在は、石垣,曲輪,土塁,空堀,井戸などが残る。城の縄張りは最高所に本丸に当たる詰があり、東に詰下段,二の段、南から西に三の段,四の段、さらに西側丘陵に伝厩跡曲輪が配された連郭式山城である。また、城の北東部には岡豊八幡があった。

【史跡規模】

【指 定】国指定史跡(2008年7月28日指定)
【国 宝】
【国重文】              

関連時代 鎌倉時代 戦国時代 安土桃山時代
関連年号 1508年・1518年・1585年・1588年 1591年

 

関連人物 系図 関連人物 系図 関連人物 系図
長宗我部能俊 HT07 長宗我部兼序 HT08 長宗我部国親 HT08
一条兼定 F721 羽柴秀吉 ZZ01

 

 

 

 
       

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▲案内板

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▲二ノ段

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▲堀切

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▲井戸(ピンボケです)

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▲詰下段

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▲「詰下段の礎石建物跡」説明

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▲三ノ段へ

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▲三ノ段

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▲三ノ段

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▲三ノ段石垣

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▲三ノ段石垣

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▲「三ノ段の礎石建物跡」説明

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▲詰

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▲詰

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▲詰

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▲城址碑

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▲「詰」説明板

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▲「詰の礎石建物跡」説明

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▲詰の石垣

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▲詰からの眺望

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▲四ノ段

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▲岡豊城跡標柱裏面

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▲「横堀」説明板

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▲虎口

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▲虎口に残る石垣