赤堀城跡

あかほりじょうあと(Akahori Castle Ruins)

【C-ME137】探訪日:2024/10.22

【C-ME137】赤堀城跡 三重県四日市市城東町20-720番7号

【MAP】

〔駐車場所〕スギドラッグ四日市中央店の駐車場を利用させていただく。

【C-ME137】赤堀城跡

   1353(正平8/文和2)年、赤堀勝謂が足利尊氏から野辺御厨地頭職を安堵され、本館地の上野国から伊勢国栗原に移ってきた。
 また、1413(応永20)年頃、田原孫太郎景信が下野国の赤堀庄から栗原の地に移住して築城し、地名を赤堀と命名して赤堀氏を名乗ったという。赤堀景信は、2男・秀宗に赤堀家を継がせて、長男の盛宗を羽津に、3男・忠秀を浜田においてそれぞれ城(羽津城浜田城)を築かせ、赤堀三家として四日市地方を支配するようになった。
 戦国時代には北勢四十八家の一つとして赤堀氏は神戸氏と同盟を結び、1559(永禄2)年に長野家の一族郎党の工藤氏が中勢の諸豪族を率いて、浜田城及び赤堀城の四日市地域の赤堀三家を塩浜から上陸して攻撃しようとした際には、塩浜の海岸付近で赤堀家と浜田家の赤堀二家と神戸氏の援軍で長野工藤氏を撃破した(塩浜合戦)。
 しかし、1575(天正3)年6月、織田信長の家臣の滝川一益軍による伊勢侵攻があり、赤堀城と浜田城は落城した。1584(天正12)年頃に北勢四十八家が攻略された後に必要性がなくなり廃城となった。
 赤堀城跡は現在は店舗や宅地となり遺構は残されていないが、四日市市の城東町から城西町にかけての50m四方が城の中心だったとされ、土塁と空堀で囲まれた平城であったと考えられている。現在は赤堀二丁目交差点近くに石碑が建っているのみである。

【史跡規模】

【指 定】

【国 宝】

【国重文】

関連時代 南北朝時代 室町時代 戦国時代
関連年号 1353年 1413年 1559年・1575年・1584年
関連人物 系図 関連人物 系図 関連人物 系図
赤堀勝謂 F*** 赤堀景信 F*** 滝川一益 KI43

 

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