松岡城跡
まつおかじょうあと (Matsuoka Castle Ruins)
【C-NN012】 探訪日:2017/9/15
長野県下伊那郡高森町下市田2502
【MAP】
〔駐車場所〕
築城年代は定かではないが、松岡氏によって築かれたとされる。松岡氏は前九年の役で敗れた安倍貞任の2男の仙千代が、乳母に連れられて市田郷の牛牧村へ逃れ、その後、郷民に推されて地頭となり松岡平六郎貞則と名乗って松岡古城に住んだのが始まりといわれる(人気のあった安倍氏に因んだ説とも考えられる)。
南北朝時代には北朝方となり、天竜川東岸の南朝方勢力に備え、より強固な松岡城を築城したとも考えられる。また、松岡伊予守貞景は下市田に安養寺を創建し、子の松岡貞政は1386(至徳3)年に、亡父・松岡貞景の33回忌を執り行い、五部の大経二百巻を写経して安養寺に寄進したといわれている。
1400(応永7)年の大塔合戦では信濃守護の小笠原氏に従って松岡次郎が参陣し、1440(永享12)年の結城合戦にも参陣している。
文明,明応年間(1469~1501年)に小笠原家が分裂して衰退すると、松岡氏は座光寺氏,宮崎氏,竜口氏などの下伊那衆を支配下におく有力国人に躍り出た。
しかし、1554(天文23)年、武田信玄が伊那へ侵攻し小笠原氏の鈴岡城や知久頼元の神之峯城、高遠頼継の高遠城、藤沢頼親の福与城などが落城すると、松岡氏は武田氏に降伏。その後、知久氏,座光寺氏など一部の伊那衆が神之峰城に籠城して武田に反旗を翻し、松岡氏も一時同調するも神之峰城が猛攻を受けて陥落すると、武田信玄に降伏し所領を安堵された。
1582(天正10)年、織田信忠が伊那に侵攻すると、市田郷で森長可と武田勢が戦い、瑠璃寺,松源寺,安養寺は焼かれ、飯田城,大島城の武田勢は降伏したため、伊那の豪族は織田氏に投降した。武田勝頼が自刃して武田家が滅亡すると、織田信長の家臣・毛利秀頼が坂西氏の居城であった下伊那郡の飯田城主となり伊那を統治した。このとき松岡頼貞は本領を安堵された。
同年6月、織田信長が本能寺の変で横死すると、毛利秀頼は武田氏旧臣などによる反乱を恐れて尾張に帰還し、飯田城は下条頼安に掌握された。伊那は徳川家康の勢力下となり、松岡貞利も徳川家康に従属し、1585(天正13)年の第1次上田城の戦いにも徳川勢として上田城を攻めている。しかし、同年、石川数正の豊臣秀吉への寝返りに対し徳川方だった小笠原貞慶が高遠城の保科正俊を攻撃して豊臣家に恭順したとき、松岡貞利も小笠原貞慶に協力しようと高遠城へ向かったことを座光寺為時が伊那郡代(知久平城主)の菅沼定利に密告したため、松岡氏は改易となる。貞利は井伊直政の助命嘆願(父・直親に対する恩義があったため)により死罪は免れ、駿府城の井伊屋敷に入った。このとき松岡城は廃城になったと考えられる。貞利はその後、佐和山城に入った井伊直政に従って500石で彦根藩の藩士に列している。
松岡城は天竜川西岸にある段丘の上に築かれている。松岡氏の檀那寺といわれる松源寺から南東へ伸びた段丘の上に、主郭まで空堀で区画された五郭の曲輪で構成されている。主郭は広大な平地であり、二郭と区画する空堀に面して土塁が残る。南下には横堀や帯曲輪も残されている。
【史跡規模】 |
【指 定】 |
関連時代 | 南北朝時代 | 室町時代 | 戦国時代 |
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関連年号 |
1400年・1440年 |
1554年・1582年・1585年 |
関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 |
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安倍仙千代 | G437 | 松岡貞則 | G437 | 松岡貞景 | G437 |
松岡貞政 | G437 | 松岡次郎 | G437 | 武田信玄 | G437 |
知久頼元 | G437 | 高遠頼継 | G437 | 藤沢頼親 | G437 |
織田信忠 | OD04 | 毛利秀頼 | OE** | 松岡頼貞 | **** |
下条頼安 | **** | 松岡貞利 | **** | 小笠原貞慶 | G438 |
座光寺為時 | G637 | 菅沼定利 | G139 | 井伊直政 | F441 |
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▲五の堀
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▲四の堀
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▲三の堀
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▲二の堀
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▲二の堀辺りからの松源寺方向(四の郭)
▲一の堀
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▲主郭の土塁
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▲主郭の土塁
▲主郭
▲主郭
▲主郭
▲主郭
▲城址碑
▲主郭からの眺望
▲主郭からの眺望
▲主郭からの眺望