鈴岡城跡
すずおかじょうあと (Suzuoka Castle Ruins)
【C-NN007】探訪日:2017/9/14
長野県飯田市駄科1055
【MAP】
〔駐車場所〕
築城年代は定かではなく、南北朝時代に小笠原宗政によって築かれたとされるが、小笠原一族内での抗争(参考資料参照)が激しくなった室町時代後期に築かれたと考えられる。
室町時代、小笠原氏は府中(深志)小笠原氏,松尾小笠原氏,鈴岡小笠原氏の三家が権力争いを繰り返す。小笠原氏を再興した小笠原政康が1442(嘉吉2)年に死去すると、政康の兄の子・小笠原持長が家督相続を主張して、1446(文安3)年に政康の子・宗康を漆田原の戦いで討ち取って南下し、国府を奪い府中(深志)小笠原氏となった。しかし、宗康は戦死前に伊那郡伊賀良荘松尾城に居た弟の松尾小笠原氏の小笠原光康を後継者に定めており、両家の抗争が続く。また、府中から光康の元に逃れた小笠原政秀(宗康の子)も鈴岡小笠原氏を起こす。小笠原政秀は府中小笠原氏の清宗(持長の子)から府中を奪い返して、1473(文明5)年には幕府から信濃国守護に任ぜられた。しかし、小笠原家をまとめ上げることはできず、小笠原長朝(清宗の子)を養子に迎え、再び家督を府中小笠原氏へ譲る。
政秀は、当初は松尾小笠原氏の小笠原家長(光康の子)とは良好な関係にあったが、領地争いより家長を討つ。しかし、家長の子・小笠原定基が1493(明応2)年に政秀を暗殺し、鈴岡小笠原氏は滅亡した。
その後、松尾城に対抗のために小笠原信定(長棟の子,長時の弟)が鈴岡小笠原家を再興し、鈴岡城主になるが、1554(天文23)年の武田信玄の伊那侵攻で落城し、松尾城の支城として使用された。さらに、1582(天正10)年の織田信長の甲州征伐でも落城している。
廃城は小笠原氏がこの地を去った1590(天正18)年と推定される。
城は段丘の突端に築かれた丘城で、段丘崖と天竜川支流の谷によって三方が守られ、6条の大きな空堀によって区切られた5つの郭からなる。東端に主郭、西から南を囲むように空堀が巡りその外側に二の郭、主郭の北は空堀を挟んで出丸を配している。主郭の一部に土塁が残っている。現在は鈴岡城址公園として整備されており、松尾小笠原氏の松尾城とは毛賀沢川を挟んで向かい側にある。
【史跡規模】 |
【指 定】長野県指定史跡(1971年5月27日指定) |
関連時代 | 南北朝時代 | 室町時代 | 戦国時代 | 安土桃山時代 |
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関連年号 | 1446年・1493年 | 1554年・1582年 | 1590年 |
関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 |
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小笠原宗政 | G437 | 小笠原政康 | G437 | 小笠原持長 | G437 |
小笠原宗康 | G437 | 小笠原光康 | G437 | 小笠原政秀 | G437 |
小笠原清宗 | G437 | 小笠原長朝 | G438 | 小笠原家長 | G437 |
小笠原定基 | G437 | 小笠原信定 | G437 | 武田信玄 | G425 |
織田信長 | OD04 |
<信濃小笠原3氏の抗争>
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▲二の郭
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▲二の郭北側斜面
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▲主郭
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▲土塁
▲ひょうたん池
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▲主郭と出丸の間の堀切
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▲出丸