北方城跡

きたかたじょうあと(Kitakata Castle Ruins)

【C-GF015】探訪日:2015/9/5

【C-GF015】北方城跡  岐阜県本巣郡北方町北方

【MAP】

〔駐車場所〕

【C-GF015】北方城跡

   明応年間(1492~1500年)、伊賀太郎衛門光就が築城したという。4代目城主の伊賀太郎衛門守就から安藤氏を名乗り、安藤守就に改名する。守就は当初土岐頼芸に仕えていたが、美濃が斎藤道三によって奪取されると、道三の家臣として仕えた。稲葉良通や氏家直元らと並んで西美濃三人衆と称されたという。
 1556(弘治2)年、道三と斎藤義龍の抗争(長良川の戦い)では義龍に協力し、義龍の没後は斎藤龍興に仕えた。1567(永禄10)年の織田信長の美濃侵攻に対して他の三人衆らと共に内応し、そのまま信長の家臣として仕え、引き続き北方城城主となる。しかし、1580(天正8)年、甲斐の武田勝頼と内通したという罪により、信長によって織田氏から追放され、北方城城主は稲葉良通となった。1582(天正10)年、本能寺の変で信長が家臣の明智光秀により討たれると、守就は子の安藤尚就と共に挙兵して北方城を奪い、再起を試みた。しかし、稲葉良通に攻められ敗死し、北方城は廃城となる。
 北方城の跡地には、1668(寛文8)年に北方陣屋が築かれ、美濃国加納藩藩主松平光重の三男である戸田光直(戸田光賢)、旗本5,000石の陣屋となり、1868(明治元)年まで存続する。

【史跡規模】

【指 定】
【国 宝】
【国重文】

関連時代 戦国時代
関連年号 1492~1500年・1556年・1567年・1580年・1582年
関連人物 系図 関連人物 系図 関連人物 系図
伊賀光就 F963 安藤守就 F963 土岐頼芸 G135
斎藤道三 F846 稲葉良通 OC07 氏家直元 F656
安藤尚就 F963 戸田光直 F530

 

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▲城址碑

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▲安東家系図と北方様年譜

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▲大井神社