木田城跡
きだじょうあと (Kida Castle Ruins)
【C-AC365】探訪日:2021/3/22
愛知県東海市大田町城山15-1
【MAP】
〔駐車場所〕
築城年代は定かではないが、鎌倉時代末期に比高20mの城山に一色左馬助が築いたとされる。その後、荒尾氏が知多半島西北部にある荒尾七ヶ村の地頭となる。
1554(天文23)年、荒尾小太郎空善は織田信長配下として村木砦の戦いに加わり、その帰途、今川に与した花井氏の寺本城の城下に火を放った。さらに、今川方の攻撃に備えて荒尾郷の南端にあった木田城を整備し本拠をここに移した。花井氏も木田城の目と鼻の先に薮城を築き花井惣五郎を入れて相対した。
また、空善には世継ぎが無ったため、同じ知多郡の豪族で大野城主の佐治為貞の子である善次を婿養子に迎え、反今川の同盟を結んだ。善次は1560(永禄3)年の桶狭間の戦いなどで戦功を挙げている。善次の娘は初め織田信時に嫁したが、信時没後は信長の乳兄弟の池田恒興に再嫁し、之助,輝政ら4男を産んでいる。木田城主となった善次の長男・荒尾善久は信長に仕えたが、1572(元亀3)年の三方ヶ原の戦いで徳川家康の援兵として派遣されて戦死した。跡職は信長の命により、池田恒興の子、荒尾善次の孫でもある古新丸(当時5歳)に譲渡され、荒尾一族は古新丸の家臣として仕えた。小牧長久手の戦いで父・恒興と兄・之助が戦死すると、古新丸は池田家の後継ぎとなり池田照政(輝政)と名を改めた。荒尾善次は生涯にわたって輝政の補佐を務めている。
なお、池田恒興の母・養徳院は織田信長の乳母として有名である。信長は幼い頃から癇癪の強く、どんな乳母の乳首も噛み破るため困り果てていたとき、養徳院が引き受けたところ、嘘のようにおとなしく乳を吸うようになったという。信長は養徳院を生涯「大御ち様」と呼び、頭があがらなかった。池田輝政は祖母追福のため京都大徳寺に養徳院を、母(荒尾善次娘)のために相国寺に善応院を創建している。
木田城には現在、民家が建ち果樹園となっており、背後の尾根続きに堀跡が残されている。また、城の北には観福寺がある。
【史跡規模】 |
【指 定】 |
関連時代 | 鎌倉時代 | 戦国時代 |
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関連年号 | 1554年・1560年・1572年・1584年 |
関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 |
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一色左馬助 | G3** | 荒尾空善 | AW02 | 織田信長 | OD04 |
花井惣五郎 | **** | 佐治為貞 | H*** | 荒尾善次 | AW03 |
善応院(荒尾善次娘) | AW03 | 織田信時 | OD02 | 池田恒興 | KI18 |
池田輝政 | KI18 | 荒尾善久 | AW02 | 養徳院(池田政秀娘) | **** |
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▲ここから4,5m直登
▲丘陵上
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▲南から東にかけての堀跡
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▲西からの遠景