大徳寺
だいとくじ (Daitoku-ji Temple)
【T-KT038】探訪日:2012/10/20
京都府京都市北区紫野大徳寺町53 <📲:075-491-0019>
【MAP】
〔駐車場所〕
1319(元応元)年、禅僧・宗峰妙超が赤松円心の帰依を受け、洛北紫野の地に小堂を建立したのが大徳寺の起源という。1325(正中2)年、花園上皇が宗峰に帰依し、大徳寺を祈願所とする院宣を発した頃から寺院としての形態が整っていく。
1334(建武元)年に後醍醐天皇が大徳寺を京都五山のさらに上位に位置づけるとする綸旨を発したが、建武の新政の瓦解により足利政権によって五山からも除かれ十刹の第9位となった。このため第26世養叟宗頤は、1432(永享3)年には五山十刹から離脱し、座禅修行に専心するという独自の道をとった(林下)。
その後の大徳寺は、貴族,大名,商人,文化人など幅広い層の保護や支持を受け、特に一休宗純の輩出により茶の湯の世界とも縁が深くなり、武野紹鴎,千利休,小堀遠州をはじめ多くの茶人が大徳寺と関係をもつようになる。1453(享徳2)年の火災と応仁の乱(1467~77年)で当初の伽藍を焼失したが、一休宗純が堺の豪商らの協力を得て復興。近世以降も豊臣秀吉や諸大名の帰依を受けた。なお、大徳寺住持であった古渓宗陳が三門(金毛閣)の上に千利休の木造を祀ったことが豊臣秀吉を憤慨させ、利休の切腹につながったともいわれている。
江戸時代初期に幕府の統制を受け、元住持の高僧・沢庵宗彭が紫衣事件で流罪の圧迫を受けたが、3代将軍徳川家光が沢庵に帰依したこともあって幕府との関係ものちに回復した。近世には、末寺25ヶ国280余寺,末寺の塔頭130余院を数えるほど栄えたが、明治維新後の上知令によって多くを失ってしまう。1878(明治11)年、塔頭の合併,寺の切縮縮小をはかることで今日に至っている。
【史跡規模】 |
【指 定】国指定史跡(2016年9月8日指定) |
関連時代 | 鎌倉時代 | 南北朝時代 | 室町時代 | 明治時代 |
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関連年号 | 1319年・1325年 | 1334年 | 1432年・1453年 | 1878年 |
関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 |
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宗峰妙超 | **** | 赤松円心 | G828 | 花園上皇 | K334 |
後醍醐天皇 | K501 | 養叟宗頤 | **** | 一休宗純 | K601 |
武野紹鴎 | **** | 千利休 | **** | 小堀正一(遠州) | F918 |
古渓宗陳 | **** | 豊臣秀吉 | ZZ01 | 沢庵宗彭 | **** |
徳川家光 | TG03 |
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