豊田城跡
とよだじょうあと (Toyoda Castle Ruins)
【C-NR031】探訪日:2022/10.2・10.29
奈良県天理市豊田町
【MAP】
〔駐車場所〕天理教 北2駐車場に停めさせていただく。
豊田山城ともいう。築城年は定かではないが、室町時代に興福寺大乗院方の衆徒である豊田氏が居城とした。豊田氏は豊田,匂田,田村,三島,田井庄などに勢力を張った大和武士である。1429(永享元)年、豊田頼英の頃に興福寺一乗院衆徒の井戸氏との争いを発端とした大和永享の乱が起こり、大和国は約10年に及ぶ戦乱の時代となった。豊田氏は越智氏に属していた。
1455(享徳4)年、豊田氏は古市氏,高山氏,秋篠氏とともに官符衆徒に任じられ、筒井氏に代わり寺門奈良中の検断権(警察権)を得て、筒井氏,古市氏に次ぐ勢力となった。しかし、応仁の乱後の1498(明応7)年から、豊田氏は筒井氏の反撃を受け、筒井順盛が越智氏を撃破した動きの中で豊田城は攻撃を受けて落城し、豊田氏は筒井氏に属するようになる。
その後、1568(永禄11)年には、台頭してきた松永久秀に攻められ落城し松永方の支城となった。このとき、豊田氏は井戸氏の井戸城に立て籠もったが、1570(元亀元)年に松永氏に内応して井戸城を脱出し松永氏の傘下となるが、翌1571(元亀2)年、松永久秀軍と筒井順慶軍の間に起きた辰市城の戦いで討死し滅亡した。
豊田城は東の山塊から西へ張り出した標高191m,比高100m尾根に築かれ、城域は東西290m,南北380mに及ぶ。大きく三つ(主郭と副郭を分けると四つ)の曲輪から成り、北側の最高部が主郭、その東側に副郭があり、これを取り囲むように四方に横堀が付けられ、南西側は横堀から複数の竪堀へと変化している。また、副郭の東側に横堀を挟んで東郭、南側の広い平段の南の尾根には幾重かの小さな段から成る南郭(出郭)を配されている。室町時代の築城であるが、横堀,竪堀を多用した戦国時代の特徴も備え、松永氏による改修が加えられたと考えられる。
【史跡規模】 |
【指 定】 【国 宝】 【国重文】 |
関連時代 | 室町時代 | 戦国時代 |
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関連年号 | 1429年・1455年・1498年 | 1568年・1571年 |
関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 |
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豊田頼英 | **** | 筒井順盛 | MW21 | 松永久秀 | ZZ02 |
豊田城縄張図(『日本城郭大系』に加筆)