桑名城跡
くわなじょうあと (Kuwana Castle Ruins)
【C-ME010】探訪日:2016/3/20
三重県桑名市吉之丸5-1
【MAP】
〔駐車場所〕
1186(文治2)年、桑名行綱によって築かれたのが始まりとされる。
戦国時代には、1513(永正10)年に伊藤武左衛門が城館を築いた東城,樋口内蔵の西城そして矢部右馬允の三崎城の桑名三城と呼ばれる城があった。現在の桑名城は伊藤氏の東城があった辺りと考えられている。
1574(天正2)年、織田信長がこの地を征し、部将の滝川一益が三城を配下に置いた。その後、豊臣秀吉の時代になると神戸信孝,天野景俊,服部一正,一柳直盛,氏家貞和,松平家乗と支配者が目まぐるしく入れ替わった。一柳氏の時代に神戸城の天守を移築したという。
1601(慶長6)年、徳川家康は東海道の海上交通の要所である桑名城に徳川四天王の本多忠勝を入れた(10万石)。忠勝は入封直後、揖斐川沿いに城郭の建造を開始し、城には船着場も整備し4重6階の天守をはじめ51基の櫓,46基の多聞が立ち並んだ。また同時に城下町も整備された。
1617(元和3)年、2代の忠政は播磨姫路藩に移封となり、代わって久松松平定勝が入城。定重の時代、1701(元禄14)年には桑名市街地の過半を焼く大火に遭い、この際に天守も焼失し以後再建はされなかった。その後、定重は越後高田藩に移封となり、代わって奥平忠雅が入城し7代続いた後、1823(文政6)年、再び久松松平家の定永が入城した。定永は、藩祖である松平定綱と実父・松平定信を祀る鎮国守国神社を城内に勧進した。
そして、幕末には松平容保の実弟である松平定敬が藩主となり、京都所司代として兄と共に京都の治安を預かった。大政奉還の後の1868(慶応4)年、鳥羽・伏見の戦いに敗れた旧幕府軍と共に定敬も江戸に向かった。藩主不在の桑名城では抗戦か恭順か激論となり鎮国守国神社の神籤により上層部では抗戦と決定したが、下級藩士の猛反発にあい、結局は無血開城した。明治政府軍はこの際に辰巳櫓を焼き払い開城の証とした。
現在は、城跡には石垣,堀が残るのみで、桑名城址九華公園として整備されている。伝承では、城門は了順寺の山門に、三の丸御殿は浄泉坊に移築されたとされ現存する。
城は揖斐川に臨む水城であり、北辺には東海道桑名宿「七里の渡し跡」がある。また、2003(平成15)年には国土交通省水門統合管理所を建造するにあたって蟠龍櫓を外観復元している。
【史跡規模】 |
【指 定】三重県指定史跡(1942年1月17日指定) |
関連時代 | 鎌倉時代 | 戦国時代 | 安土桃山時代 | 江戸時代:前期 | 江戸時代:中期 | 江戸時代:後期 |
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関連年号 | 1186年 | 1513年・1574年 | 1601年 | 1617年 | 1701年・1823年 | 1868年 |
関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 |
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桑名行綱 | H161 | 伊藤武左衛門 | **** | 滝川一益 | KI43 |
神戸信孝 | H108 | 天野景俊 | F01* | 服部一正 | H149 |
一柳直盛 | OC10 | 氏家貞和 | F656 | 松平家乗 | MT** |
徳川家康 | TG01 | 本多忠勝 | F504 | 本多忠政 | F504 |
松平定勝 | MT43 | 松平定重 | MT45 | 松平忠雅 | MT59 |
松平定永 | MT45 | 松平定綱 | MT44 | 松平定信 | MT45 |
松平定敬 | MT59 |
※本サイトの写真は転用可です(ダウンロードすると、より鮮明に見えます)
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▲本多忠勝像
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▲神戸櫓跡
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▲辰巳櫓跡
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▲大砲が置かれた経緯は不明
▲天守跡
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▲七里の渡し跡
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▲外観復元された蟠龍櫓
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