須佐城跡A
すさじょうあとA(Susa Castle Ruins A)
【C-AC677】探訪日:2024/1.17
愛知県知多郡南知多町豊浜鵞麦28
【MAP】
〔駐車場所〕
築城年は定かではないが、平安時代後期には須佐為基の居城であったとされる。治承・寿永の乱(源平合戦)の頃、源氏方に付いた須佐為基は、篠島城主の室賀秋季と共に源頼朝へと情報を流していた。のちに頼朝が平氏を倒して鎌倉幕府を開くと、この功績により須佐の地を所領として与えられたという。
永正年間(1504~20年)には、志摩国千賀浦から千賀氏が海を渡り知多半島に移ってきて、須佐城を手中に収めた。そして、長面寺を再興し正衆寺と改号して、千賀氏の菩提寺とした。その後、1542(天文11)年頃、千賀重親が大野城主・佐治氏の陣代として幡豆崎城へと移った際に須佐城は廃城となったとされる。
千賀氏家老・川合氏の記録では須佐城は正衆寺の東方、江戸時代の村絵図では正衆寺の背後の山と谷を隔てた東南とされ、候補地として須佐城跡A(字会下坪・鵞麦)と須佐城跡B(字鵞麦・孫松)が比定されており、特定できていないのが現状である。
須佐城跡Aは須男神社から北へと入り、なだらかな斜面を登っていくと標高73.5m,比高65mの山頂へと達する。平坦部(主郭としたが)は東西約20m,南北約80mで、一部畑地だった形跡もあり城域がどこかは判然としない。また、明確な堀切や空堀などはみられず防御性が低く、城館としては疑問が残る。さらには、江戸時代の村絵図でいう「・・・・谷を隔てた東南」の記述に合致しない。
【史跡規模】 |
【指 定】 【国 宝】 【国重文】 |
関連時代 | 平安時代:後期 | 戦国時代 |
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関連年号 | 1180~1185年 | 1504~20年・1542年 |
関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 |
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須佐為基 | **** | 千賀重親 | **** | 佐 |
須佐城縄張図(『愛知県中世城館跡調査報告』に加筆)