各和城跡
かくわじょうあと(Kakuwa Castle Ruins)
【C-SZ115】探訪日:2024/4.14・5.11
静岡県掛川市各和1925-1
【MAP】
〔駐車場所〕永源寺の参詣者用駐車場を利用する。
客輪城,可久輪城とも記す。築城年は定かではないが、明応年間(1492~1501年)ではないかといわれている。場所についても特定できていない。原野谷川東岸の八幡神社の南地域とし原野谷川西岸の金塚山を詰め城とする説と、原野谷川西岸の永源寺境内を中心に北へ広がる地域を城跡とする説がある。また、築城者は各和道空とされるが、これも確証はない。各和氏は、今川貞世(了俊)の次男・伊予守貞継を祖とするとも、貞継の兄である貞臣の次男・肥後守貞行を祖とするともいわれている。
1506(永正3)年に伊勢新九郎長氏(北条早雲)が三河に攻め入った際に各和氏の名が見える(各和道空?)。1568~69(永禄11~12)年には徳川家康が遠江に侵攻し、客輪(各和)三郎兵衛が徳川方の将・久野宗能と戦って討ち死にしている。家康が掛川城に逃れた今川氏真を攻める際に各和城を掛川城包囲網の1つとした。
さらに高藤城落城から今川方となり、その後は武田氏に仕えて各和城の在番となっていた原六郎頼延(頼郷)は、信玄没後の家康の遠江平定時の1573(天正元)年3月、石川家成,久野宗能により各和城を攻め落とされた。
永源寺には土塁らしきものは残るものの城跡の痕跡はほとんどみられない。