苅安賀城跡

かりやすかじょうあと (Kariyasuka Castle Ruins)

【C-AC096】探訪日:2015/9/12

【C-AC096】苅安賀城跡 愛知県一宮市大和町苅安賀上西之杁58

【MAP】

〔駐車場所〕

【C-AC096】苅安賀城跡

   築城年代は定かではないが、1561(永禄4)年に尾張浅井氏の浅井政貞(信広)によって築かれたとされる。政貞は織田信長に仕え赤母衣衆の一員であり、のちに織田信忠の軍に組み入れられた。子の浅井長時(田宮丸)も信忠に仕えたが、本能寺の変で信忠が討死すると、信忠次弟の織田信雄に仕え、家老の一人となった。
 信雄と羽柴秀吉の関係が険悪化する中で、秀吉は浅井長時と岡田重孝,津川義冬の信雄の三家老を自軍傘下に組み込もうと懐柔した。信雄は三家老の内通を疑い、1584(天正12)年3月、三家老を長島城に呼び出し謀殺した(そもそも秀吉の計略とも言われる)。苅安賀城主には長時を討った森久三郎が充てられた。小牧長久手の戦いが始まると、徳川・織田方として維持され尾張西部を固める城として役割を果たした。また、小田原攻めの際には秀吉は小早川隆景に清洲城と苅安賀城の守備を命じ、隆景は手勢500人で後方の補給路確保に当たった。
 城は苅安賀自動車学校の辺りとされ、東西76m,南北58mの規模で内外二重堀の構えであった。現在は遺構はなく石碑が建つのみである。

【史跡規模】

【指 定】
【国 宝】
【国重文】

関連時代 戦国時代 安土桃山時代
関連年号 1561年・1584年 1590年
関連人物 系図 関連人物 系図 関連人物 系図
浅井政貞(信広) F526 浅井長時(田宮丸) F526 岡田重孝 G604
津川義冬 **** 織田信雄 OD05 森久三郎 G***
小早川隆景 H463

 

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