川路城(大坪城)跡

かわじじょう(おおつぼじょう)あと (Kawaji[Ootsubo] Castle Ruins)

【C-AC091】探訪日:2015/8/15・2019/4/6・2019/6/16

 愛知県新城市川路

【MAP】

〔駐車場所〕

   設楽氏は鎌倉時代に現在の増瑞寺に居館(設楽氏居館跡)を設け、1312(正和元)年には岩広城を築き本城とした。川路城の築城時期は定かではないが、応永年間の頃(1394~1427年)という説がある。城趾の近くには「お鷹井戸」と呼ばれる歴代の城主が鷹狩用の鷹の飼育にその井戸水を使っていたという井戸跡が残っている。また、川路城に隣接するようにして小川路城,端城の城址も残っている。
 1560(永禄3)年の桶狭間の戦いの後、設楽貞通(鈴木氏からの養子)はいち早く松平元康への従属を決意した。元康が東三河を平定する以前のことである。その後、貞通は舅の設楽清広と共に家康の命を受けて戦功を上げている。そして、清広没後は嫡子清政の後見人となった。しかし、1574(天正2)年、清政は貞通が徳川一辺倒であることに不満を持ち、武州へ出奔してしまう。
 清政出奔後、設楽家の領地は貞通が相続し、1575(天正3)年の長篠設楽原の戦いでは、織田徳川連合軍に属して兵500を率いて樋田に陣(設楽越中守陣地跡)を構え、武田勢を多く討取っている。
 その後、1590(天正18)年の家康関東移封に際し、貞通は嫡男貞清とともに千五百石を拝領して武蔵国礼羽に移り、川路城は廃城となった。後に二千石となり直参旗本として明治に至っている。
 貞通の次男貞信は1601(慶長6)年に分家して設楽の地に戻り、竹広に陣屋(設楽家竹広陣屋跡)を構えた。この竹広設楽氏8代貞丈の3男が幕末の幕府外交で活躍した岩瀬忠震である。

 

【史跡規模】

【指 定】新城市指定史跡(1958年4月1日指定)
【国 宝】
【国重文】

関連時代 室町時代 戦国時代 安土桃山時代
関連年号 1394~1427年 1560年・1574年・1575年 1590年
関連人物 系図 関連人物 系図 関連人物 系図
設楽貞通 SR** 設楽清広 SR** 設楽清政 SR**
設楽貞清 SR** 設楽貞信 SR** 設楽貞丈 ****
岩瀬忠震 ****

 


 川路城趾標柱の場所からお鷹井戸の位置がわからず、周辺を歩き回っていたところ、手押し車を押し散歩していた小柄なおばあさんに出会った。「お鷹井戸はどこですか」と尋ねたところ、丁寧に道順を教えていただき「案内しましょうか」とまで言われたが、それは申し訳ないと思いお断りした。ところが、私がお鷹井戸を撮影し戻ろうとすると、遠くにそのおばあさんがこちらを向いて立っており、私が無事たどり着いたかを確かめてくれていたようだ。おばあさんのもとへ行き、「見つかりましたよ」とお礼を言うと、周辺のほかの史跡も教えてくださった(そこは既に訪れた個所ではあったが)。私は車に戻り、次の史跡へ行こうとしたところ、そのおばあさんが道端で花を摘んでいるのを再び見かけたので、もう一度お礼を言い、持ち合わせていたお菓子をお渡しした。そして、一言二言会話して最後にお年をお聞きすると、95歳ということであった。優しく元気なおばあさんに会えて、その日は何か得をした気分であった。

 

 

   

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【C-AC091】川路城跡

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▲お鷹井戸

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▲「お鷹井戸」説明板

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▲お鷹井戸

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▲小川路稲荷

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▲小川路稲荷