加治田城跡

かじたじょうあと(Kajita Castle Ruins)

【C-GF080】探訪日:2024/5.18

【C-GF080】加治田城跡 岐阜県加茂郡富加町加治田

【MAP】

〔駐車場所〕

【C-GF080】加治田城跡

   築城年は定かではないが、永禄年間(1558~70年)には、美濃佐藤氏の居城であった。佐藤忠能・忠康父子が築城したとも伝えられている。佐藤忠能は当初は美濃斎藤氏に従い、尾張で勢力を伸ばしていた織田信長の美濃侵攻に備え、関城主・長井道利,堂洞城主・岸信周は互いに同盟を結んでいた。
 ところが、1565(永禄8)年、忠能は信長に内通し、同年8月28日に、信長と忠能は堂洞城を攻め落とした(堂洞合戦)。その翌日には、長井道利が忠能の加治田城を攻撃したが、信長が派遣した斎藤利治に攻められ関城に退却した。さらに9月1日、関城も開城に追い込まれ、中濃は信長の手に落ちた(関・加治田合戦)。
 なお、関・加治田合戦において佐藤忠康が戦死したため、織田信長の命により斎藤道三の末子・斎藤利治が城主となった。1582(天正10)年6月2日、本能寺の変において利治が死去すると、斎藤利堯が跡を継ぎ織田信孝の家老となった。しかし、本能寺の変直後の7月には東美濃での勢力拡大を狙う森長可との間で加治田・兼山合戦が起こり、奮闘し城を死守したが、その後、利堯の城主としての活動がみられなくなり、その所領は森氏が統合した。
 東美濃全域と中濃の一部に版図を拡大した森氏は、領内にある多くの城を整理し加治田城を廃城となった。廃城後、城下町は宿場町として昭和初期まで栄えた。
 城は梨割山から南東に伸びた尾根の一つ、標高270m,比高170mの山頂にに築かれている。北西から南東に伸びた尾根上を削平していくつかの曲輪を連ねており、主郭部東端の腰曲輪から竪堀が落ちているが、この部分が虎口になっている。一部石積みもみられる。なお、麓の東公民館辺りが城主屋敷跡であったとされる。
 現在は清水寺から登山道が整備されており、北の谷から西尾根に登るルートがある。

【史跡規模】

【指 定】

【国 宝】

【国重文】

関連時代 戦国時代
関連年号 1558~70年・1565年・1582年
関連人物 系図 関連人物 系図 関連人物 系図
佐藤忠能 F*** 佐藤忠康 F*** 織田信長 OD04
斎藤利治 F864 斎藤利堯 F864 森 長可 G398

 

【C-GF080】加治田城跡
 麓の清水寺二天門のところで道を聞かれた群馬県からみえた方と再び山頂の主郭でいっしょになった。80歳で関東中心に2000以上の城を訪れているという強者であったが、なぜ城ばかり行くのか妻が理解してくれないこと、登城口がわからないことが多いこと、上りと下山を間違えて車まで5km以上歩くこともあるなど、私にも”あるあるの話”でもあり、話が弾んで楽しい時間を持つことができた。

 

【C-GF080】加治田城跡

【C-GF080】加治田城跡 ※本サイトの写真は転用可です(画像をピックすると拡大、コメント表示されます)

清水寺の東の道を上ると階段に出る(ここまでは車でも可) ろうそく岩 城跡まで750m 城跡まで近道250m(橋を渡る) 堀切、城跡まで150m 主郭 主郭 主郭 主郭 主郭 主郭からの眺望(南南西の猿啄城跡方面,遠方に名古屋のビル群が見える) 主郭からの眺望(南の堂洞城跡方面) 主郭からの眺望(東の恵那山方面) 東曲輪 東曲輪 東曲輪から主郭側を見る 南側の腰曲輪 南側腰曲輪から東の虎口へ 虎口(一部石積みが見える) 虎口から東曲輪側を見る 主郭北側の帯曲輪 主郭北側の帯曲輪 主郭北側の帯曲輪 主郭西側の帯曲輪 主郭西側の帯曲輪 主郭西側の帯曲輪