田辺城跡
たなべじょうあと(Tanabe Castle Ruins)
【C-ME118】探訪日:2024/9.6
三重県いなべ市北勢町田辺304
【MAP】
〔駐車場所〕熟人荘の駐車場もしくは坂下の墓地の空きスペースに停めさせていただく。
1586(天正14)年、木造長政が織田信雄から10274貫の所領を員弁郡に宛行われ築いたとされる。木造氏は伊勢国司北畠一族で木造城主であったが、長政の父・木造具政のとき織田信長に通じて伊勢侵攻に加担し、北畠の養子となった織田信雄に仕えた。信長の死後、織田信雄と羽柴秀吉が対立し小牧・長久手の戦いが勃発すると、戸木城に籠城して秀吉方の蒲生氏郷の攻撃を受けたが、織田信雄と羽柴秀吉が和睦したのち、長政は城を蒲生勢に明け渡して退いた。そして、信雄は長政に員弁郡の地を与えた。
1590(天正18)年、織田信雄が秀吉によって突然改易されると、2万5千石で織田秀信の附属とされ、4年間の居城であった田辺城を離れ岐阜へと移った。しかし、関ヶ原の戦いでは西軍に与することとなり福島正則らと戦ったが、敗れて改易となった。その後、福島正則に仕えて広島へ移っている。長政は主君・秀信に対し、徳川家康の東軍につくように進言したという。
田辺城は田切川と二之瀬川の間を南北に伸びた丘陵(標高240ⅿ,比高20ⅿ)に築かれた北勢地方有数の大規模な平山城である。南方に主郭群、北方に家臣の屋敷跡が配されている。主郭は空堀と土塁に囲まれた50ⅿ×50ⅿの方形で、三方に虎口が開く(ただし、西側の虎口は後世の加工か?)。空堀は幅約5m,深さ約2m(土塁上からは約4m)と防御性が高い。主郭の南西側に2郭があり、ここも土塁と空堀を備え、南側に大手口(虎口)がある。現在の高齢者センター塾人荘の駐車場にある模擬門からは、ここに通じる。
【史跡規模】 |
【指 定】 【国 宝】 【国重文】 |
関連時代 | 戦国時代 |
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関連年号 |
1586年・1590年 |
関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 |
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木造長政 | G832 | 織田信雄 | OD05 | 織田秀信 | OD04 |
田辺城縄張図(『日本城郭大系 第10巻』に加筆)