上赤坂城(楠木城)跡
かみあかさかじょう(くすのきじょう)あと (Kami-Akasaka[Kusunoki] Castle Ruins)
【C-OS004】探訪日:1990/11/17
大阪府南河内郡千早赤阪村大字桐山
【MAP】
〔駐車場所〕
別名、小根田城,桐山城とも言う。築城年代は定かではないが、鎌倉時代末に楠木正成によって築かれた。下赤坂城を前衛の城とし、ここが本城とされる。さらに詰めの城として千早城をその背後の山上に築き、3城で鎌倉幕府軍と対峙した。
1332年(元弘2/正慶元)年4月、正成は一旦幕府軍に落ちた下赤坂城を奪い返し再挙兵したが落城したため、上赤坂城,千早城に後退して抗戦を続けた。正成は千早城へ、上赤坂城には平野将監入道,楠木正季以下300兵を守備隊として置いた。
1333(元弘3/正慶2)年2月22日、鎌倉幕府軍の阿蘇治時,長崎高貞,結城親光らが攻撃を仕掛け、上赤坂城の戦いが始まった。楠木軍もかなり善戦したが幕府軍に水の手を切られ、守将の平野将監入道らが投降(幕府は除名の約束を裏切り全員を打ち首)。しかし、幕府方も1,800人以上の多大な死傷者を出し、幕軍内の厭戦感情を増大させた。一方、正季は平野将監降伏後も数日持ちこたえたものの千早城へと逃れ、幕府はその捕獲,殺害に失敗した。
上赤坂城は南北朝時代にも南朝方の拠点となったが、1360(延文5/正平15)年に北朝方の手に落ち、廃城となった。現在、遺構として等高線に沿った横堀と曲輪が認められるが、これは戦国期に改修を受けたものと考えられる。