矢作羽城跡
やはぎはじょうあと(Yahagi-ha Castle Ruins)
【C-AC663】探訪日:2023/9.7・9.20
知県岡崎市矢作町羽城78
【MAP】
〔駐車場所〕
築城年は定かではないが、矢作城があったとされる地は、矢作土井城(矢作町字土井城;矢作東小学校北西)と矢作羽城(矢作町字羽城;矢作神社西,矢作東小学校北)の2ヶ所とされている。矢作羽城の城主には島田出雲守平蔵の名が伝わる。島田氏は岡崎城の松平広忠,徳川家康に仕えて24ヶ村を支配したという。
ただ、両城は城下集落を含む一つの広範囲(矢作東小学校を挟む東西に広がる)の平城であったとも考えられている。現在は住宅地,畑地となり、遺構は残されておらず、城域,構造については特定できていない。
島田氏は美濃守護の一族であった土岐満貞の後裔と称し、はじめ三河国設楽郡島田庄(現在の新城市大字愛郷島田)に住居し、「島田」を称した。最初に島田の地に住した一族は衰退するが、島田氏の名跡は他の土岐氏一族により継がれ、特に土岐光忠の孫・定俊(矢作太郎)の系統と称する一族は、三河国碧海郡矢作庄にて一定の勢力を得、島田十兵衛の代に松平広忠の家臣となり、子の島田右京亮利秀も同じく広忠,家康の使番として仕えた。利秀の子・島田重次は父と同じく御使番として鉄砲足軽50名を預けられ、のちに徳川秀忠に付けられ、大坂の陣では旗奉行に任ぜられた。
【史跡規模】 |
【指 定】 【国 宝】 【国重文】 |
関連時代 | 戦国時代 |
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関連年号 |
関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 |
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島田平蔵 | G135 | 島田十兵衛 | G135 | 島田利秀 | G135 |
島田重次 | G135 |