矢作土井城跡

やはぎどいじょうあと(Yahagi-doi Castle Ruins)

【C-AC662】探訪日:2023/9.7・9.20

【C-AC662】矢作土井城跡 愛知県岡崎市矢作町切戸

【MAP】

〔駐車場所〕

【C-AC662】矢作土井城跡

   築城年は定かではないが、矢作城があったとされる地は、矢作土井城(矢作町字土井城;矢作東小学校北西)と矢作羽城(矢作町字羽城;矢作神社西,矢作東小学校北)の2ヶ所とされている。矢作土井城の城主には島田弾正の名が伝わる。島田氏は岡崎城の松平広忠,徳川家康に仕えて24ヶ村を支配したという。
 ただ、両城は城下集落を含む一つの広範囲(矢作東小学校を挟む東西に広がる)の平城であったとも考えられている。現在は住宅地,畑地となり、遺構は残されておらず、城域,構造については特定できていない。
 島田氏は美濃守護の一族であった土岐満貞の後裔と称し、はじめ三河国設楽郡島田庄(現在の新城市大字愛郷島田)に住居し、「島田」を称した。最初に島田の地に住した一族は衰退するが、島田氏の名跡は他の土岐氏一族により継がれ、特に土岐光忠の孫・定俊(矢作太郎)の系統と称する一族は、三河国碧海郡矢作庄にて一定の勢力を得、島田十兵衛の代に松平広忠の家臣となり、子の島田右京亮利秀も同じく広忠,家康の使番として仕えた。利秀の子・島田重次は父と同じく御使番として鉄砲足軽50名を預けられ、のちに徳川秀忠に付けられ、大坂の陣では旗奉行に任ぜられた。

【史跡規模】

【指 定】

【国 宝】 

【国重文】

関連時代 戦国時代
関連年号
関連人物 系図 関連人物 系図 関連人物 系図
島田弾正 G135 島田十兵衛 G135 島田利秀 G135
島田重次 G135

 

【C-AC662】矢作土井城跡

 

 

【C-AC662】矢作土井城跡

【C-AC662】矢作土井城跡 ※本サイトの写真は転用可です(画像をピックすると拡大、コメント表示されます)

土井城地区南端 土井城地区南端 土井城地区東端(矢作東小学校西端) 土井城地区北端 土井城地区北端 堤防道路から見た土井城地区 堤防道路から見た土井城地区