下津城跡
おりづじょうあと (Orizu Castle Ruins)
【C-AC108】探訪日:2015/9/20
愛知県稲沢市下津高戸町
【MAP】
〔駐車場所〕
築城者は定かではないが、1400(応永7)年頃に尾張守護に補任された斯波義重が下津城に守護所を置いたとされる。守護代として斯波氏の被官である織田常昌が越前国から尾張国へ派遣された(織田氏の祖となる)。また、1432(永享4)年には第6代将軍の足利義教が富士遊覧の際に宿泊したといわれる。
応仁の乱が起こると、尾張国でも守護代織田氏が斯波氏の家督争いに介入して、二家に分裂して抗争を始めた。この時期に守護代織田家の嫡流で元々守護代職を世襲していた織田伊勢守家当主の織田敏広が入城し居城としたという。しかし、1476(文明8)年、敏広は守護代織田家の分家筋の織田大和守家当主の織田敏定と戦いで下津城は焼失した。しかし、その後の戦いで敏定が敗れ一旦京へと逃れた。1478(文明10)年、敏定は守護代に補任し尾張へ侵攻し清洲城に立て籠もることとなる。幕府の仲介で敏定と敏広の間で和議が成立し、織田敏定を尾張二郡の守護代とすることで決着した。1479(文明11)年、敏広は岩倉城を築いて居城とし織田伊勢守家岩倉織田家の祖となっている。
下津城は下津小学校の西側一帯に築かれていたとされ、周囲より一段高くなっている辺りが本丸跡という。遺構は残されていない。