十七条城跡
じゅうしちじょうじょうあと(Jushichijo Castle Ruins)
【C-GF068】探訪日:2024/2.8・2.27
岐阜県瑞穂市十七条
【MAP】
〔駐車場所〕熊野神社前に1台分の駐車スペースがある。
築城年は定かではないが、『新撰美濃志』によれば、南北朝時代初頭に土岐頼貞の子・舟木頼胤(土岐頼員の弟・船木頼重と同一人物とも言われる)によって築城された。舟木城とも呼ばれる。その後、二階堂氏や仙石秀豊,和田利詮が居城とした。
享禄年間(1528~32年)には林正長が城を改修している。正長の子・林玄蕃は1562(永禄5)年に織田信長と斎藤龍興の間で起きた軽海の戦いで戦死したため、弟の林正三(政秀)が後を継ぎ、1578(天正6)年に逝去するまで城主を務めた。林氏は近隣の曽根城主・稲葉良通(一鉄)と抗争を繰り返したが、両者が和睦した際に正三の子・正成は、一鉄の長子・稲葉重通の娘を娶り、正成は稲葉の名字を称した。しかし、重通の娘が早世したのち、重通の養女(父は斎藤利三)となっていたお福(のちの春日局)を後妻とした。1607(慶長12)年、稲葉正成は徳川家に召し出され、十七条城主として十七条藩・一万石を治めた。その子・稲葉正定は尾張藩へ仕え、十七条村で一千石を治めたが、孫の六郎右衛門に嗣子がなく1675(延宝3)年に尾張藩士としての稲葉家は断絶、廃城となった。
城は熊野神社の南側に築かれていたとされ、神社の南東に主郭跡が残る(民家が建つ)。