座光寺北城跡
ざこうじきたじょうあと (Zakoji North Castle Ruins)
【C-NN015】 探訪日:2017/9/14
長野県飯田市座光寺1717
【MAP】
〔駐車場所〕
上野北本城,北本城とも呼ばれる。築城年代は定かではないが、座光寺氏によって築かれたとされる。座光寺氏は応永年間(1394~1428年)に船山城主の片切為信の3男河内守重慶が座光寺に住み、座光寺氏を称したことに始まるといわれる。
戦国時代には一時、知久氏に従い、1542(天文11)年に武田信玄が伊那に侵攻すると、伊那の諸将とともに武田氏に降った。1553(天文22)年、武田氏が川中島で上杉氏と戦った後、翌1554(天文23)年には座光寺氏は知久氏とともに武田氏に反旗を翻した。武田信玄は自ら兵を率いて伊那へ侵攻し叛乱を鎮圧、座光寺貞信は生け捕りとなった。また、城主座光寺三郎左衛門貞房は、飯田城主の秋山信友に従って美濃岩村城を守っていたが、1575(天正3)年、織田氏に敗れ城将の信友とともに捕殺された。
1585(天正13)年、座光寺為時は、石川数正の豊臣秀吉への寝返りに対し徳川方だった小笠原貞慶が高遠城の保科正俊を攻撃して豊臣家に恭順したとき、隣の松岡貞利も小笠原貞慶に協力しようと高遠城へ向かったことを伊那郡代(知久平城主)の菅沼定利に密告し、その功により上野国碓氷郡大竹に950石を与えられた。その後も徳川家康に仕え、関ヶ原の戦いの際に第2次上田氏の戦いの戦功で市田郷山吹の地に戻り、交代寄合の旗本として山吹陣屋を構え1150石を領し明治維新まで続いた。
座光寺北城は現在の座光寺小学校から耕雲寺一帯に築かれ、規模は南北6~700m,東西2~400mで西側三方に空堀や土塁を設け、東側の急斜面には腰曲輪,堀切で守備している。台地の平らな部分には空堀や土塁で区画された4つの曲輪があった。平常時の居城で、南本城が有事の際の城と考えられる。
【史跡規模】 |
【指 定】 |
関連時代 | 室町時代 | 戦国時代 |
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関連年号 | 1394~1428年 | 1542年・1554年・1585年 |
関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 |
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片切重慶 | G636 | 武田信玄 | G425 | 座光寺貞信 | G637 |
座光寺貞房 | G637 | 秋山信友 | G433 | 座光寺為時 | G637 |
小笠原貞慶 | G438 | 保科正俊 | G514 | 松岡貞利 | **** |
菅沼定利 | G139 |
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▲南曲輪跡(座光寺小学校)
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