五箇篠山城跡

ごかささやまじょうあと(Gokasasayama Castle Ruins)

【C-ME163】探訪日:2025/1.24

【C-ME163】五箇篠山城跡 三重県多気郡多気町朝柄2966

【MAP】

〔駐車場所〕城跡下に広い駐車場がある。

【C-ME163】五箇篠山城跡

   築城年は定かではないが、鎌倉時代中頃に野呂氏隆によって築かれ、野呂氏の居城であったと伝えられている。1343(康永2/興国4)年には、当時の北朝方の伊勢守護・仁木義長により攻撃を受けている。その後の史料がなく合戦の結果は不明であるが、前年の田丸城坂内城の陥落と同様、五箇篠山城も程なく落城したものと考えられる。なお、当時は「五ヶ城」と呼ばれていた。
 その後の動向ははっきりしない。一時、北畠氏の被官であった五箇景雅などの名が見えるが、五箇氏も1473(文明5)年頃、北畠氏に背いたとして誅伐され、再び、野呂氏の居城となったのか。1569(永禄12)年に野呂氏が大河内城の戦いで戦死すると、安保氏が城主となったとも。
 ただ再び、注目されたのは、兄の北畠具教を1576(天正4)年に三瀬館で織田信雄に殺害された弟・北畠具親が、五箇篠山城に籠って北畠氏の再興を計ったときである。『勢州軍記』などによれば、1582(天正10)年の本能寺の変後の冬に、備後国に逃れていた北畠具親が伊勢国に入り、旧臣を募って五箇篠山城に籠城した。しかし、信雄軍による攻撃が翌正月1日に始まると、2日間ほどの戦闘で落城したとされ、具親は伊賀国へと落ちたという。
 五箇篠山城は櫛田川の南岸に聳える標高140m,比高70mの独立峰の山頂に築かれている。曲輪を東西に並べた連郭式山城で、各曲輪は堀切で区画され、西端の主郭には西側にコの字状に低土塁、東に高土塁がある。主郭とⅡ郭の間の堀切は二重になっている(この遺構はひよどり城跡にもみられる)。

【史跡規模】

【指 定】多気町指定史跡(1997年12月22日指定)

【国 宝】

【国重文】

関連時代 鎌倉時代 南北朝時代 室町時代 戦国時代
関連年号 1343年 1473年 1569年・1583年
関連人物 系図 関連人物 系図 関連人物 系図
野呂氏隆 G032 仁木義長 G373 五箇景雅 G032
安保氏 **** 北畠具親 G830 織田信雄 OD05

 

【C-ME163】五箇篠山城跡
 

 

【C-ME163】五箇篠山城跡

 

五箇篠山城縄張り図(『日本城郭大系 第10巻』に加筆)

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主郭へ 虎口 主郭 主郭からの北の眺望(櫛田川と勢和小学校が見える) 東から見た主郭 主郭東の大土塁 主郭東の大土塁 主郭とⅡ郭の間の二重堀切(主郭土塁から見る) 主郭とⅡ郭の間の二重堀切 主郭とⅡ郭の間の二重堀切 Ⅱ郭 主郭とⅡ郭の間の二重堀切(Ⅱ郭から見る) 二重堀切底から見た主郭方向 Ⅱ郭とⅢ郭の間の堀切(Ⅱ郭から見る) Ⅱ郭とⅢ郭の間の堀切 Ⅱ郭とⅢ郭の間の堀切 Ⅲ郭 Ⅲ郭とⅣ郭の間の堀切 Ⅲ郭とⅣ郭の間の堀切 Ⅳ郭 堀切 郭の南側