光明城跡

こうみょうじょうあと (Komyo Castle Ruins)

【C-SZ058】探訪日:2020/10/30

【C-SZ058】光明城跡 静岡県浜松市天竜区横川

【MAP】

〔駐車場所〕山頂の光明寺遺跡に駐車場がある。

【C-SZ058】光明城跡

   築城年代は定かではないが、享禄年間(1528~32年)に朝比奈時茂によって築かれ、後に朝比奈又太郎泰方が継いで在城したとされる。もとは山岳寺院の光明寺があったが今川氏が接収し、秋葉街道の要衝を抑えるために光明山山頂(標高539m)一帯を山城に改修したのが始まりとされる。今川氏没落後は武田氏に支配され、元亀年間(1570~73年)には武田氏の属城として朝比奈又太郎が犬居城の天野宮景貫と戦っている。
 1575(天正3)年6月、長篠設楽原の戦いに勝利した徳川家康は本多忠勝,榊原康政に命じて光明城を攻略させ、落城後は二俣城主の大久保忠世に預けられ忠世の家臣が守備した。攻城時に戦死した徳川氏旗頭5人の「五人塚」が残されている。1582(天正10)年に武田氏が滅亡すると廃城になったと考えられている。
 その後、江戸時代になると城址に光明寺が再建され、本堂,石垣等を築き寺院として発展した。しかし、1931(昭和6)年に火災に見舞われ、寺院は本堂一帯を焼失し、再び移転している。
 城の遺構はわずかに中曲輪と堀切が残されているのみである。

【史跡規模】

【指 定】
【国 宝】
【国重文】

関連時代 戦国時代
関連年号 1528~32年・1570~73年・1575年・1582年
関連人物 系図 関連人物 系図 関連人物 系図
朝比奈時茂 F434 朝比奈泰方 F434 徳川家康 TG01
本多忠勝 F526 榊原康政 G375 大久保忠世 F648

 

【C-SZ058】光明城跡
 県道から城跡(光明寺遺跡)へ登る入口は何ヶ所かある。遺跡まで道のりは長く、道路は舗装整備されてはいるが、落石や倒木,雑草が茂り、時には木の枝で車の側面を引っ掻く場所もあった。注意して走行する必要がある。寺院遺跡と混在するため城域が定かでないため、このサイトでは中曲輪と五人塚,堀切を中心に掲載したが、光明寺跡(T‐SZ002)も参考にしていただきたい。

 

【C-SZ058】光明城跡

【C-SZ058】光明城跡 ※本サイトの写真は転用可です(ダウンロードすると、より鮮明に見えます)

【C-SZ058】光明城跡

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【C-SZ058】光明城跡

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▲城跡へ進む(石垣は光明寺の遺跡)

【C-SZ058】光明城跡

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【C-SZ058】光明城跡

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▲中曲輪

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▲中曲輪

【C-SZ058】光明城跡

▲五人塚

【C-SZ058】光明城跡

▲五人塚

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▲五人塚

【C-SZ058】光明城跡

【C-SZ058】光明城跡

【C-SZ058】光明城跡

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▲堀切

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▲堀切

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▲井戸跡?

【C-SZ058】光明城跡

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▲本曲輪?

【C-SZ058】光明城跡

▲本曲輪?